いずみ創刊百号に際し、谷川俊太郎氏の詩を掲載させて頂きます
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカートそれはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
命を考える
過日、長崎原爆資料館に行ってまいりました。おりしも、修学旅行シーズンで、複数校の小学生が会場に来館しておりました。原爆資料館で学ぶ意味を事前学習し、班行動で手持ちの資料を確認しながら、思い思いに展示物を見ておりました。しかし、小学校の修学旅行ですから、旅行というワクワク感が子供たちの気持ちを高ぶらせ、見学どころではないお祭り騒ぎの児童もいて、その様子に我が子の修学旅行もきっとこうだったのだろうと回顧したものでした。
しかし中には、焼け焦げた死体、焼け野原の街並みに、恐怖とショックとで頭が混乱し、体が固まったかのようになっている児童もたくさんいました。
この子たちが大人になった時、どんな人になるのだろうか、どんな世の中になっているのだろうか、原爆資料館の記憶は残っているのだろうか、心に刻まれた何かが、どんな成長の方向性をもたらすのだろうかと、年寄り目線で子どもたちを見守ったものです。
やけどの母親の乳をやけどをした赤ん坊が吸っていました。群がる死体のそばで、疲れ果てた若者が座り込んでいました。
周りに転がっているのが黒焦げの死体と気づいていないかのように、何も感じていないかのような目をしています。
小学生が亡くなった弟を背負い、火葬の順番を直立で待っています。この光景が本当に日本で起こったのかと、見ている自分も感情が奪われていくようでした。悲しいとか、辛いとか、憤るとか、そんな感情ではない、黒い闇だけが重く自分にのしかかり、心が稼働しないような状態でした。そんな時を同じくして、詩人の谷川俊太郎さんが老衰でお亡くなりになりました。
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
難しい言葉は連ねていません。当たり前のことを普通に語ってくださっています。しかし、なぜか今は、その一番簡単なことが、一番難しくなってきているように思う、今の世の中です。
この泉福寺新聞「いずみ」の百号という節目に改めて、思うのです。生きている限り、この地球にお世話になっている限り、人を愛し、命ということを一人一人が考える責務があるということを、頭に置いておかねば、取り返しのできない事態になるのではないかと思いめぐらすのです。
いや、気づかないだけでもう取り返しのつかない事態がすぐ後ろに迫っているかもしれません。みんなで必死に大切な命のことを考えて下さい。お願いします。