令和6年度 春彼岸【臨時】泉輪

 偉人僧侶を知る

 皆様ご無沙汰いたしております。三月に入った途端、一気に春めいてまいりました。今年の冬は九州といえども厳しい寒さが襲いかかり、首をすくめる日々を過ごした日もございましたが、それが噓のような気候の移り変わりでございます。
 ただ我々のように春の喜びに浮かれる人ばかりではなく、雪深い地方の人は記録的な豪雪により残酷な雪の洗礼を受け、また岩手県大船渡市では山林火災により家屋を全焼した方もおられます。その地域は未だ記憶に鮮明に残っております東日本大震災による津波被害が甚大な地域で、その津波の教訓から家を山裾側に移り住んで新築した経緯を持たれた方もおられました。それがなんという事か、その新築した家を今回の山火事で焼失するという二重の苦境に立たされご苦労を強いられている方もおられる現実に、何とも言い難く、ただただ、寄り添いの心を持ちながらお悔やみとお見舞いを申し上げるばかりでございます。
 自然の力を前にして、人間のちっぽけな力はなす術もなく無力に感じますが、立ち上がる勇気を応援するばかりでございます。
 昔の先人も、自然の力を恐れ、荒れ狂う波を見ては、海を渡り諸外国に行くことはとてつもなくゼロに近い確率でしか成功しないと信じておりました。船を作る技術、自然を予測する学問、言葉の壁、ありとあらゆるものが劣っていた大昔ですが、それでも当時、一部の人は知りたい、学びたいと強く思う賢人たちがいて、そのたゆまない努力の結果、外国に渡り、そこで学んだ諸外国の学問や文化を日本に持ち帰ってきたのでございます。様々な分野で過去に偉人、賢人がいる中ですが、その歴史をほんの少しではありますが、この愚僧にも学ぶ機会がございました。
 過日のことですが、「すごい僧侶図鑑」という本を読む機会に恵まれました。学力低く、それに加え読解力の低い私のようなものにでもわかりやすく、図解と共に表現された書籍でした。まず最初にその書籍で紹介された人は聖徳太子です。初めて仏教を本格的に日本に導入した人物として紹介されていました。聖徳太子と言えば昭和世代は一万円札と思いうかべる有名な人物です。聖徳太子の功績は日本という当時名もない小国が国際社会に名を売る足がかりとなるべく、国の制度を整える基礎を作った人物です。
 当時のアジア圏で文明の進んだ国は中国でした。その文化と国づくりに欠かせない日本の国際的地位の向上のために遣隋使を派遣し、中国文化を持ち帰らせたのです。その持ち帰り文化の一つが仏教でした。そして経典を分析し、その真髄を国家形成に役立てたと言われております。特に聖徳太子が中心となって作られたとされる法華義疏(ほっけぎしょ)という書物に、万善同帰(ばんぜんどうき)という言葉が出てまいります。その言葉の意味は、たとえどんなに些細なことでも、善い行いは必ずいつか善い結果をもたらせてくれるという因果応報の理念を説いたものでした。聖徳太子は仏教経典の詳細を人々に説く意義に、仏教が社会の中で大事な価値観を提供するものであると教えてくれる物差しとしたのでした。その意味を理解させ、まじめに堅実に働くことを仏教をとおして諭したのでした。
 その精神は今の我々にも息づいています。冒頭でしたためました雪に苦しむ人がいたら早く雪の降りやむ時候を願い、山林火災が起きれば一刻も早い沈下を願います。その心の案じる姿が善行そのものではないでしょうか。他人の苦を自分の苦と捉え、何かできることはないか無意識に感じるその心を大切にしていただき、何事もない平和の有難さをお感じ頂ければと存じます。
 さて、先ほどの書籍に話を戻しますが、総勢五十人もの功績ある僧侶の名前が出てまいります。だれもが知る歴史上の人物ばかりで、最澄、空海、道元、われらの宗祖法然上人ももちろん登場致します。ただ近年の登場は誰もいないだろうと思いきや一九四八年にお亡くなりになった浄土真宗の大谷光瑞師が掲載されておりました。なんでも中央アジアにおける仏教遺跡の調査ということを成し遂げられた方のようです。お釈迦様が説法をされた霊鷲山(りょうじゅせん)を発見し、インドマガダ大国の首都である王舎城(おうしゃじょう)を特定されたようです。その王舎城(おうしゃじょう)はお釈迦様がお亡くなりになった後、ここで最初に仏典の編集が行なわれた場所とされ、仏教発展の根本聖地とされる重要なところのようです。二千五百年以上前に誕生した仏教が、現代でも新たに発見されることがあり、多くの謎を今なお秘めていることは、多くの研究者を魅了させる要因なのでしょう。
 仏教の歴史に比べると、ここ泉福寺の歴史なんかは吹けば飛ぶようなものでしょうが、もう間もなく泉福寺が開かれて八百年を迎えようとしております。開山上人(泉福寺を開かれた和尚様)は幸阿上人(こうあしょうにん)です。その幸阿上人の文献をお調べの和尚様のお一人が、今回お説教師としておみえ下さる淀川ご住職です。その方が以前泉福寺にお説教にお見えになられた際、幸阿上人に関する興味深いお話をして下さいました。幸阿上人は、もしかしたら女性だったのではないかと言われたのです。ただ完全なる確証には至らないものの、かなりの確率で男性ではないと思われる見解をご披露してくださいました。
 当時は今以上に男尊女卑の時代です。それが光明寺の管長を歴任され、九州まで出向いて泉福寺をお開きになられた方が女性であったならば大きな歴史に転換点です。
 淀川様にはより多くの研鑚学習をしていただき、真相究明をしていただければとご期待している所存でございます。過去の偉人の軌跡を学ぶことも楽しいですが、今現在、泉福寺にまつわる歴史をご研究されている方への羨望の眼差しは、淀川様に穴が開くくらい深く強く見詰めている所存でございます。
 そんな歴史の中に皆様のご先祖様がおられ、檀信徒の皆様が関わっておられる仏縁もこれまた誠にありがたいものでございます。
 春の陽気に誘われてお寺にお参りくだされば八百年の時の尊さをお感じ頂ける春彼岸になれることでしょう。
 是非とも春の陽気に誘われてお寺へのお参りにお越しください。お待ち申し上げます。

合掌
輝空談

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