泉輪 平成20年度 修正会にむけて


ひとは、人をかえることは
        できないけれど、
人は、ひとによって
       かわることができる


 この教えは、ある教育者(小学校教諭)からの
ことばです。
小学校の先生は、全く文字の解らない子供たちに
文字を教えようと、鉛筆の持ち方、正しい姿勢など、
文字の前に必要なことを手解きします。
 そして、初めて文字を教え、文章を教え、
国語力を付けさせます。
 また、数字を知らない子供たちに数字の書き方、
物の数え方を教え、計算式の意味を教え、
数学力を付けさせます。
 先生が生徒に教える当たり前の姿です。
先生は教育のプロであり、教える職業であるからです。
全く、もっともな事です。

 では、私どもが、自分の人生で学んだことを
人に教えることはどうでしょうか。
 とかく人間は、自分の正しいと思うことを
人に教えようとします。
 また、間違っていると思われる言動には、
不快感を覚え、訂正させようとします。

 でも、人間の行動や思いは、
法律で決められているもの意外、実に様々で、
本来正しいと決められるもの自体が少ないのでは
ないでしょうか。
人の顔形が違うように、考え方も違うものです。

 ですから、なかなか本当の胸の内が伝わらなかったり、
誤解を招いたり、勘違いが生じます。
 しかし、不思議なことに、
無理やり一方的に教えてもらった事ではないが、
何気ない些細な出来事に、人は感動し、心震わせます。
 それらは、脳裏に焼きつき、その瞬間に
その人の人生が変わったといっても過言でないことが、
人生の中で何度か起こります。

 誰でもあるやも知れませんが、
その瞬間に出会えるかどうかは、それが感じられるか、
表現を変えれば、気付かされるかどうかなのです。

 そして、それが出来るか出来ないかは、
日々の中で、他人に教えられる、
必要、不必要な関わりで
自然と心の鍛錬をさせられているからです。
 その鍛錬は、むしろ
不必要な事柄からが多いでしょう。
時に、無意味に思えたり、
おせっかいに思えたり、
時に傷つく鋭いことばからです。

 やはり、人生とは、何一つとっても、
無駄なものはなく、
自分の成長の糧になるものです。

 そして、人生の先輩は居ても、
人生の先生は何処にも居ず、
ただ、一生学ぶ生徒のようなものであります。

 それにしても、いつか、
私の息子たちにも気が付くことがあるでしょう。
 今、家内が怒鳴って子供たちを追いかけている姿は、
けっして無駄なことではないだろうと。

               苦笑礼拝  輝空