泉輪 平成23年7月



お盆を前に


釈迦(お釈迦様)により、仏教が開かれましたのが、約2500年前の事で、当時は、まだ紙の存在がなく、植物の葉に文字を書く時代の上、何故か釈迦は記録を許さず、人々には口伝えで法話をし、記憶で悟りを残したとされております。
釈迦入滅後も釈迦の教えは、多くの弟子により広められ、仏教が世界中へ伝道されていったのでございます。
そもそも、仏教教義は釈迦一人の悟りによるものでしたが、時代を経て他国に教えが伝わると、その国々ではその地特有の風習通念により、同じ仏教でありながらも、インド仏教、中国仏教等と、その国独自の思想を介し、仏教が定着していったわけでございます。


やがて日本にも、約1500年前に中国大陸を経て仏教が入ってまいりました。それ以降、多くの高僧により仏教は教義を深められ「日本仏教」が確立されて参りました。確立される過程では、その高僧たちが、様々な釈迦の教えを探求し続けたのでございます。その探究力はやがて独自の方向性を持ち、それが各々の道を作り、同じ日本仏教でありながらも、結果「仏教宗派」として、袂を分けたのでございます。

今現在、宗派は大きく分けて13宗あると言われております。私ども泉福寺は、「浄土宗」に属し、詳しく申しますと、その浄土宗の中の一派・西山浄土宗です。


他に浄土系に浄土真宗、時宗がございます。
禅宗系に、曹洞宗、臨済宗、律宗、また日蓮系の日蓮宗、密教系の真言宗、天台宗、その他に融通念仏宗、華厳宗、法相宗の十三宗でございます。
さらにそれらの宗派には、分派や新派が分かれて参りますので、一言に仏教といえども数知れずの宗派が存在するのです。

では、なぜそのようにたくさんの宗派が生まれたのでしょうか。元を正せば釈迦が一人でお開きになった一宗教でしたが、時代の変化やその時代背景を加味し、後の高僧たちは、釈迦の教えを広め伝える手段として、


後数十万ある経典の中から、己の信念を信じ、今人々を救うに一番大切な経典はこれだ、と選び抜いたものを教義の基に仏教を確立していったのです。

例えるなら、釈迦の悟りを山とすると、頂上を極めるためにどの山道を選ぶかです。Aの道では距離は短いが、岩のごつごつした急斜面、Bの道は比較的登り易いが急流があり、天候が変わりやすい。Cはなだらかだが道則が非常に長い、といった具合に登る道も違えば風景も違う。そうなるとその山道に必要な服装や登山道具も違うことになります。


どれも頂上に向かい、釈迦の悟りを探求するには変わりありませんが、手段方法が違うため、結果共存せず別物としたので、宗派が生まれたのです。

では、私ども浄土宗の宗祖法然上人は、仏教という大きな山を登る最善の方法を模索するにあたり、古代中国の僧侶・善導大師(ぜんどうだいし)の著書で、浄土宗の根本経典の一つである「観無量寿経」の解釈について述べた『観経疏(かんぎょうしょ)』を宇治の平等院鳳凰堂で閲覧し、お念仏信仰の教義に感銘し、衝撃を受けたと記録されております。

          

法然上人と、この「観経疏」の出会いがなければ、今日の浄土宗は存在しえなかったとまでいわれる書物です。

そして、法然上人は、教義上の師となる善導こそが、阿弥陀如来の化身であると信じるに至ります。煩悩を消し去ることが出来ない凡夫であっても、『称名(念仏を称えること)』さえすれば全て阿弥陀如来(あみだにょらい)が救済して下さるということを法然は確信したのです。その本願によって確立されましたのが浄土宗です。
私どものご先祖様は、代々その浄土宗でご供養され、絶えることなく「南無阿弥陀仏」と念じ、

          

我々もまたその様に称名して参りました。それ故に、西方浄土で阿弥陀様のお側にて、ご先祖様が守護されておられるのです。

そしてもう間もなく、そのご先祖様がお盆にお帰りになられます。お帰りには、有難くも阿弥陀様のご加護をお持ち帰られます。毎年変わらぬお盆会の、その絶えることのない仏縁を知れば、自然とまたお念仏を発するものです。それが浄土宗の精神です。
いつも通りのお念仏でかまいませんが、お盆会は感謝の心を以てするならば、ゆっくりとお仏壇にお念仏下さることと存じます。

尊きご先祖様に感謝念仏        輝空談