泉輪 平成23年3月 春彼岸



僧侶の服装



皆様には、暮れのご挨拶からのご無沙汰でございます。暮れから二月までの寒さは例年以上に厳しく、首をすぼめて歩く人々の様子に、誰しもがいつまでこの寒さが続くのだろうかと、恨めしく天を仰いだものです。それが今ではすっかり春めいて、足取り軽く皆様の表情すらほころんでいるようです。

 過ぎ去ってみれば、残寒の折、見逃す程の僅かな春の兆しが表れる頃、店頭で並ぶ洋服が一足先に春物へと移行し、今般の気温の上昇と共に、人々の衣服も、一枚一枚少なくなってきたようです。



若い人は先取りで、少々肌寒くとも、ファッションを優先するでしょうが、私のような年齢では、木の芽立ち前の風邪の怖さから、なかなか冬物が仕舞えずにおります。

私の普段着は取り立てて皆様の記憶に残るようなものは着ておりませんが、お寺の法要になりますと、人々の視線は結構感じるもので、通りすがりにいささか恥ずかしいような、照れくさいような居心地の悪さを覚えます。



その、僧侶の服装ですが、普段は「略衣(りゃくえ)」と申しまして、黒の袂の短い衣を着ており、お通夜では、「黒衣(こくえ)」と申し、皆様の正装の喪服と同じ用途の衣を召しております。

ほかにも、一般的に黒色の召し物を上げますと、「喪服」以外に「黒留袖」「紋付」「燕尾服」などがあげられるでしょうか。どれも、用途は別と致しましても、第一礼装になります。極端に言えば、喜びの時も悲しみの時も地柄は別とし、どちらも黒色の召し物です。 なぜ、黒を第一礼装の色としたのでしょうか。



色という観点から考えてみましょう。色からくるイメージを想像してみますと、原色には力強さを感じ、赤では情熱、緑に若葉の成長を連想させ、青で清々しさや、クールさ、時には悲しみの色ととられる時もございます。逆に淡い色から誰しもが、温かみと親しみを感じるはずです。

また、心の表現だけではなく、季節感も色で表現出来ますし、昨日の記憶ははっきりとした色で描きますが、遠くかすかな記憶となりますと、おぼろげな柔らかいタッチがふさわしく感じ、時間の距離感にも色が一役買いそうです。



このように様々な様子の代弁に、色を用いることでその物語を語ることが出来るのが、色の力でございます。

では、人の人生を色で語ることは出来るでしょうか。人間の一生の中でも、楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、その様々な出来事が大なり小なり絶えず押し寄せ、その中で多くを学び月日を重ねているのです。それを、たった一色で表すことは到底無理な話です。

        


その人生の中で、特に大きな節目となる冠婚葬祭は、一瞬で迎えられた出来事ではなく、赤色に例えられる思い、青色に例えられる思い、黄色に例えられる思い等をすべて塗り重ね、心の中に重ねて重ねて混ぜ合わせた色が、深い深い黒という色を作り出すのです。だから第一礼装は、全てのあらん限りの心の色を塗り重ねた色故、黒が用いられるのです。

 

        


それに対し、白の色についてはあるコラムの掲載がございました。朝日新聞に舞踏家の「天児牛大(あまがつうしお)」氏が、全身白ずくめで踊る精神を、「白は何物でも染まろうと決意の色であり、変貌を待ち、新しい感情が胸の中に芽生える。」と語られておりました。まさに花嫁がそうでしょう。
 白という未来への色と、黒という過去の積み重ねの色を思い、誰もが一着は持っている、黒の礼装服を眺めてみますと、ご親戚の結婚式や、お身内のご葬儀と一晩では語りつくせぬ程のドラマが蘇ってくる事かと存じます。

        


そのどの場面にも、今は亡き故人様がおられるはずです。その故人様がお霊家でお待ちでございます。その時、言い尽くせなかった思いを間もなく参ります「春彼岸」でご先祖様とお語らい下さることも、また格別なご先祖様のご供養になるかと存じます。

 感謝念仏 南無阿弥陀仏

     合掌 輝空談