泉輪 平成22年度秋お十夜法要にむけて



お念仏の力


秋たけなわとなり、紅葉は美しく見頃を迎えております。この季節は誰しもが、ゆっくりと京都の古寺でも訪れてみたいと思うものです。絶景の美しさと仏教の融合は独特の宗教感をもたらせてくれます。

私達にとって、その「宗教感」というのは、いったいどこから生まれてきているのでしょうか。

また、仏教であるのですから、仏様の存在は当たり前と感じておりますが、ただどこにいらっしゃるのかと問われてみれば、得体のない「空を掴む」様で、表現がし難いものでございます。


そもそも仏の世界というものは、私達には見ることができません。何故ならば、仏の世界は、時間と空間を超越した物体を伴わない世界でありまして、永遠の時間と無限の空間で成り立っているのが、仏の世界であります。私達が感じているものは、そのごくわずかな一部分でしかないのです。

 では我々凡夫は、どうすれば、仏の世界を見ることができるのでしょうか。 一般説法で、西方十万億の彼方に西方極楽浄土があると言われておりますが、それは、人々にわかりやすく説明するための方便でありまして、特定の場所にお浄土が存在している訳ではありません。


逆に言えば、あらゆる場所に、お浄土が見てとれるかどうか、人の「心模様」が関係しているのです。心の持ちようによっては、今、私達が住んでいるこの地が、お浄土だと感じる人もいるでしょう。それを仏教用語で表すと「心浄土浄」と申しております。意味は、欲望に狂うと心の目は、例え仏様が居られる土地であっても、そこを、お浄土には感じることができず、心が清らかであってこそ、その人がいる場所がお浄土だと感じる、という意味です。

ならば同じ事は、地獄においても言えます。地獄という特定の場所もある訳ではありません。


あなたの心が、あなたの生き方が、あなたのいる場所を地獄にしているのです。その心の傲りを戒めるように表現したのが「地獄説法」なのです。例えるならば、ある一つの場所を一人の人はお浄土と感じ、同じ場所に居るにもかかわらず、地獄と感じる人も居るのでございます。

つまり、人間という者は、それぞれの人が、それぞれの考え方を持ち、それぞれの生き方をして、その結果、その地をお浄土と捉えてみたり、地獄と捉えているのです。ですから、浄土も地獄もさまざまな状況を生みます。誰しも地獄を望む者は居ず、お浄土を望むのが常です。


ならば、己の心の持ち様を冷静に整え、お浄土を私達の日常生活にとって現実のものにし、意味のあるものにしなければなりません。

平たく言えば、自分の心の中にお浄土をつくるということなのです。そうすると、目の前の普段の当り前の生活風景がお浄土に感じることができるのです。

では、どうすれば、私達の心の中にお浄土をつくることができるのでしょうか。それは、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることであります。


たったそれだけで、と思われるやもしれませんが、念仏という文字に見てとれますように、念仏は、「今の心に仏」と書きます。

今、仏様を自分の心の中に持つという事が、そのまま、仏様の世界、お浄土をつくっているという事になるのです。
それでもお浄土をつくることに努めてみても、やはり我々は凡夫であり、自分ではどうすることもできない事態に遭遇致します。 だからこそ、阿弥陀様のお導きにお任せするしかないことを今もって知らなければならなりません。


また、法然上人は「念々称名常懴悔」を強調されて示されておられます。それは、ただお念仏するだけなのではなく、称名念仏は、常に懴悔の念を持って称えることが必要であると言っておられます。

どうか、そういった、法然上人の本髄の意を心に留め、お念仏をこれからも称えて頂き、お念仏の相続に励んで下さいます様、お願い申し上げ、お浄土の心にお目覚め頂けますよう祈念申し上げます。

  合掌               輝空談