諸行無常(しょぎょうむじょう)
つい先日まで暑い暑いと申しておりましたら、お彼岸が来て、御十夜を勤めると、もう師走でございます。本当に月日が早いものです。
勿論十二月ですので大掃除と除夜の鐘の準備に勤(いそ)しまないといけないのですが、そんな最中(さなか)、除夜の鐘の「鐘」繋がりからか、ふっと学生時代の古典の授業で習った「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」という言葉が思い出されました。
古典好きでもなかったですし、そもそも勉強嫌いであったにもかかわらず、自然とその一説が脳裡をよぎりました。
慌てて記憶を辿り、確か枕草子か、徒然草いやいや、平家物語だったのではと、調べに調べ、折角ですので有名な冒頭をまずは、お披露目させて頂きます。
ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわすしゃらそうじゅのはなのいろ じょうしゃひっすいのことわりをあらわす
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如しおごれるものひさしからず ただはるのよのゆめのごとし
猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じたけきものもついにほろびぬ ひとえにかぜのまえのちりにおなじ
意味は、ブッダ(お釈迦様)がお亡くなりになると、その死を悼み、長年ブッタが修行されておられた「祇園精舎(寺院)」の鐘が鳴り響いた。
その鐘の音色は、ブッタの真髄である、「あらゆるものは、同じままに留(とど)まるものはない」と教えているようだ。
ブッタの亡骸の四方に植えられていた「沙羅双樹」の木は、その悲しみから一片を白く枯死させた。その様子から、盛んな者もいつか必ず滅び行く道理を意味している。
おごり高ぶる者も永久には続かず、まるで春の夜の夢のようで、勇ましい人も最後には滅び、あたかも風に吹かれる前の塵の様だ。
この物語は、はるか遠くインドでブッタ(お釈迦様)が往生(お亡くなりになった)された時の様子を、琵琶法師が琵琶を奏でながら語った語り部(かたりべ)を記録したものが原型の様です。何度も読み返せば読み返すほど納得させられます。
本当にそうですね。人間の根底の中に、目の前の物は何も変わらない、今あるものはずっとあると考えがちです。
実際は、全ての現象は刻々と変わりつつあります。東日本大震災で一瞬の変貌で多くの悲しみも目の当たりにしましたし、リーマンショックのような世界的経済危機も押し寄せ、日本の今の不況を生みました。
個人レベルでは、明日体調を壊すかもしれませんし、思いがけない心境の変化が起こるかもしれません。
そう考え深く追及すると毎日の変化自体が怖いように思えてしまいます。
実はその恐怖こそ、物への執着から生まれる驕りなのです。
ずっと健康で若くありたい。このお金をずっと持ち続けたい、いやもっと増やしたい、と、その執着が心を曇らせ真実の価値を見失うのです。
病気になって健康の大切さや、周りの人々の愛情に気付かされ、お金に替えられない命の尊さは、真の幸せを知るのです。
ですから、大変な状況から学び得たものこそ、深い教えが込められていて、人々の心を強くしてくれます。
しかし、人それぞれに起こる大変な状況とは、決して苦しいことばかりを意味しているのではありません。
大変とは、「大きく変わること」を意味しているのです。
即ち、本人の心がけや考え方次第で、どのようにも大きく変わりうるのです。そして良くも悪くも変わることを認めきれば、ブッタ(お釈迦様)の教えの「諸行無常」が理解出来るのではないでしょうか。
とは申しましても、なかなか執着を捨てられず、「諸行無常」などと達観出来ないのが人間です。
現に、七百年以上前に書かれたこの平家物語に、「諸行無常」を理解しきれない人間の浅はかさが描かれておりますが、七百年という時代を経ても今の我々にもそのまま当てはまり、いつの世も人間の欲がはびこり続けていることを意味します。
それ故に、欲を捨てよ、執着を捨てよと教えて下さるお釈迦様の教義である「仏教」が今も必要なのだと感じさせられます。
懺悔合掌
輝空談