泉輪 平成24年8月



皆様には、暑中お見舞い申し上げます。


さて、本日は「生老病死」についてお話申し上げます。

「生老病死」のこの仏語は、お釈迦様が言われたお言葉です。意味はご存知のとおり、生きている限り免れることの出来ない苦しみを表しております。老いていく苦しみ、病気になる苦しみ、死んでいく苦しみは、誰もが自身もしくは他人が経験し、且つ、漠然と想像をすることができる苦しみですが、生きる苦しみとは、何を指してお釈迦様は言われたのでしょうか。

それは、インド地域特有の身分制度にあったのです。お釈迦様のお生まれのインド地域には紀元前から「カースト制」とうい身分制度があり(※注1950年のインド憲法によりカースト制は法律上全面撤廃とされたものの、いまだにインド社会に深く根付いている。)、結婚、就職、生活区域までが決められ、本人もその子孫もその身分でしか生きていくことができなかったとされております。

その現実を目の当たりにしたお釈迦様は、選択の自由のない、垣根を乗り越えることを許されない苦悩を指して、「老病死」に「生」を加え、「生老病死」の四苦(しく)を説かれました。その思想は、我々仏教徒に今現在でも教義精神として植えつけられておりますが、「生老病死」の指す意味は本当に苦しみばかりを示しているのでしょうか。

現在の日本人には身分制度はありませんし、この世に生まれたからこそ今があり、今があるからこそ未来という可能性があります。確かにその一方の考え方では、未来とは即ち、死に向かい人生の終わりに近づくことをも意味します。又、生きているからこそ、その対価に病気、怪我、の身体への付随は仕方がなく常に良縁ばかりでなく悪縁の付きまとうのが人生です。

やれやれ、人生はやはり苦しいことばかりだと嘆き、何の為にこの世に生まれてきたのだろうかと考え、傍若無人な行動に出てしまいたくなる衝動に駆られるやも知れません。

でも、逆の考えも真ありで、終わりがあるからこそ、かけがえのない今が輝くのであって、苦しいからこそ、その先の喜びに出会えた時は、何にも変えがたい心の財産になるのです。

誰もが望んでやまない、何の苦もない道とは、どこまで歩いても真っ白で、平坦で無変化な道を歩むことであり、実はそれこそが本当の「苦」なのではないでしょうか。悪いことも起こらなければ、良い事も起こらないのですから、喜怒哀楽の感情を出すこともないので、「心」すら必要にならないのです。そんな無機質な人生ほど無意味でつまらなく、本当の「苦」に他なりません。

泣いて笑って怒って楽しんで、全ての感情が人間を豊かにするのならば、生老病死の「苦」は生きがいを得る為の人生の携帯要素であることを知らねばなりません。

お釈迦様は、生老病死の四苦があってこそ、人生の学びがあり喜びがあると説かれておられるのです。そして、生老病死の誰もが自身の最後の体験として「死」を学んだとき、即ち「仏様」に生まれ変われる喜びをも、お教え下さっておられるのです。

どなた様も懸命に生き、一つや二つ中々解決のできない問題を抱えておられるでしょうが、次の喜びへの通過点です。それをお忘れになることなくお過ごし下されば、必ずその努力に仏様が新たなお導きをお分け下さいます。どうせ誰にでも起こり得る「苦」ですから、焦らず、ゆっくり、歩んでみましょう。その歩みの中で「苦」の裏側にある「喜び」を必ずお感じ頂けるかと存じます。 

盆会を前に合掌
輝空談