泉輪 平成23年3月 春彼岸



心の春



つい先日まで居座っていた、凍てつく寒さも、うららかな便りに融けだして、春の到来が人々の心を軽くさせてくれております。心の軽さは、体まで軽やかにし、暖かな日差しに誘われて、散歩をする機会が増えだすのも、この頃ではないでしょうか。大人だけでなく子供たちも同じで、我が家の三男は、春の花、動き出す生き物に気持ちが昂るのか、毎日学校の帰りは田んぼの畔で宝探しさながらで、私にはくだらない物にしか見えないものを毎日持ち帰っております。三男の机の中には、棒切れ、石、葉っぱと本人にしか理解できない宝物が、仕舞い込まれております。



とは言え、誰しも子供の頃に、光る石を見つけると、宝物にしていた経験はないでしょうか。秘かにこれは「金だ!いやダイヤだ!」と胸膨らませ、大きくなったら鑑定団に出してみようと目論んだことは、懐かしい思い出の一つでしょう。

どの年代にも、いつの時代でも、石(輝石や珍石)は昔から人の心を引き付け、そして影響を与えてきました。歴史上でも、エジプトのクレオパトラがラピスを愛用したとも、十字軍の兵士がターコイス(トルコ石)を身に付けていたとも言われています。



また、王様や英雄の棺には必ず金銀財宝を一緒に入れる等を考えると、石に魔除けや霊的な要素を盛り込むことで、霊魂の弔いに結び付けていたようです。

日本でも昔の建物は建立する際に、四方の地中に石を埋め、地鎮を祈願する習わしがあったようで、石に特別な力があると当時の人々は考えていたようです。

また仏教の信仰の大衆化が進むと、お参りの道具のお念誦(数珠)に石が使われ始め(江戸末期頃からの様です)、



故人の弔いと共に、故人の御霊が自分をあの世へ一緒に引っ張っていくと迷信が定着した為、自身へ不幸事が起こらないように、身に付けることによる安心感が、災いを払い、幸福を招くと考えるようになりました。
人間は生きる上で遭遇する困難を乗り越える為に、宗教があるのですが、宗教という見えないものへの「もどかしさ」から、時に人は日々の生活の中でも災いが遠のくように、具体的な目に見える物体に頼ることはいつの時代でも同じようです。



今、時折若い方が、念誦の腕輪や車や携帯に石を付けている人を見ると、何かの悩みがあるのか、何かに守られたい思いがあるのかと、垣間見ては考えます。

実際の石に特別な性質があるかどうか、科学的観点の是非もさることながら、石の特性による表現を使い「パワーストーン」などと称して精神安定に使う事は理念分野の違うことなので、真意は定かではありませんが、少なくとも「石という自然のもたらした産物とは」あくまで、「あるかもしれない見えない力」とお考えになるくらいが人間にはちょうど良いと思われます。

        


でなければ、水晶の腕輪をしているから、何が何でも安心と短絡的に考え、驕(おご)った生き方をするよりも、どうぞお守り下さいと祈念の現れとすることで、苦難の備えとすることが望ましく思います。

また、本髄の心の安定を望む為には、不安材料をさらけ出すことから始まります。しかしこれは簡単なことの様ですが、中々出来ないのが人間です。それでも、仏様やご先祖様の前で嘘偽りなくお話ししてみて下さい。

 

        


誰にも邪魔されず、誰の非難も気にならず、心に溜まっていたものを吐き出すと、仏様がその空いた心の中にすぅっと入り込んで満たして下さいます。石の力もよいでしょうが、仏様のお慈悲こそありがたいものです。どうぞ、仏様にこそ「必ずある見えない力」を信じ、お念仏下さればと存じます。春の季節がもたらす心の軽やかさだけではなく、お念仏による本当の心の軽やかさを信じ、あなた様の為に十念申し上げます。

 感謝念仏 南無阿弥陀仏

     合掌 輝空談