泉輪 平成25年8月



勝利の女神


夏真っ盛りとなり、極暑の照りは耐え難く、誠に辛い季節となっております。そんな中、各都道府県では県の予選を勝ち抜いた球児たちが、高校野球の最高峰甲子園へいざ出陣とばかりに名を連ね、決戦の火ぶたが落とされる瞬間を今か今かと待ち望んでおります。白熱する予選の中でさえ小さなドラマの連続で、選り優りの若き精鋭たちも甲子園という大舞台を前に、死にもの狂いの練習を積んできたにもかかわらず、実力を発揮することに困難を極め、チャンスを活かすことに苦慮致します。

同じ最高レベルチームでさえも、たった一度の隙がチャンスを作るかミスに繋がるかに分かれ、勝敗の運命を決めるのです。よくその勝敗を決める決定的な瞬間を「勝利の女神がほほ笑んだ。」と評されることしばしばですが、本当に勝利の女神は居るのでしょうか。神様に性別があることもいささか疑問ですが、確かに神が宿ったとしか例えようのない神業がプレーに出ることは間違いありません。秒速の球道を見極め、落下地点と自身の移動可能距離からどのようにしてボールを追いかけ、キャッチするかを一瞬にして見極め、可能な限りのギリギリのせんで掴んだボールが、神業として評価されるのです。 その瞬間の為には、長い長い道のりの中、毎日誰しも血を吐くような思いで練習し、体力の限界に挑む事を繰り返し、抜き出たものだけが得ることの出来きるレギュラーの地位を確立させ、やっとの思いで辿り着く甲子園です。県全体としての球児の人数から数えるならば、その確立となると天文学的な数字の一掴みとなって、その地につくのですから、想いは一入なことでしょう。

そこでいい試合をやり抜く忍耐と根性は、まさに「勝利の女神」を舞い下ろさせる程のとてつもない奇跡の連続と言っても過言ではないでしょう。

その決戦の日、甲子園開会式では毎年行進曲が流れ、その曲に球児達の思いをのせて式典が開催されます。今年はコブクロの「ダイヤモンド」という曲です。その歌詞に「涙拭った袖口隠しながら」と何度も出てきます。誰しも成功ばかりじゃないのです。むしろ失敗と後悔の連続で、笑顔の数より涙流した数の方が多いほどです。甲子園球児に例えるならば、甲子園に行けただけでも幸せで、多くの球児はその地を踏む事さえできずに散っていくのです。

その破れ散った球児の人生に勝利の女神がほほ笑まなかったのでしょうか。女神に嫌われるようなことをしたのでしょうか。決してそんなことはありません。勝利の女神はいつも球児、いえ生きとし全ての者にほほ笑んでおります。

人生を振り返ると、若き日の苦い経験が、今の自分を方向付け、力強く歩み始めさせてくれたと感じませんか。苦しくもがいた自分を思い出すと、よく逃げずに問題に果敢に当たっていったと、過去の自分を褒める様なことはないですか。勝利の女神は勝負のその瞬間にほほ笑む時もあれば、人生がじっくり進み、後のタイミングでほほ笑むときもあるのです。人それぞれのタイミング故に、気づかず忘れがちですが、いつもそばに居るのです。

但し、これは苦しい努力の経験がそう感じさせて下さるのですから、苦しいことから逃げず、嫌なことを回避せず、そして人のせいにせず言い訳しない日ごろの行いが勝利のほほ笑みを感じる事が出来ると信じております。十代の若い人には、特に苦しいことに立ち向かう勇気をもって人生を歩むことを願います。必ずその後の人生で苦難に遭遇した時には、十代の若き自分の過去があなたを勇気づけてくれます。その横には勝利の女神もきっと居るはずです。 私は、その勝利の女神は、「阿弥陀様」であり、「ご先祖様」だと常々信じております。勝利のほほ笑み、即ち阿弥陀様のお慈悲です。

さて、今年の甲子園でも「勝利の女神」はいつほほ笑むのか楽しみでなりません。そうですよね、阿弥陀様!

合掌
輝空談