泉輪 平成25年4月



人生の安らぎ


花まつりの時分になりました。お釈迦様の誕生祭であると共に、子供の誕生を願う法要ですが、この世に生を受け、生まれてくる祝いと背中合わせに、誰しもこの世に生を受けた者は、また必ずいつか亡くなるという摂理を知ることになるのです。今回は、その「死」という観点から物事を考えてみたいと思います。

戦後間もない頃まで、人が亡くなる時、その亡くなろうとする人との関わりの中で、色々なことが過去にあろうとも、死にゆく人を中心にご家族の心が次第に通い合っていき、無言の中に、平安な和解の境地をご家族全員が共有することができた、とあるドキュメンタリー番組の中で語られていたことを思い出します。

当時のそのようなお葬式のことを「葬送」と言っていました。死に行く人を送る、この送るということに、非常に趣があったのです。だから、どこに送るかというと、我々仏教徒はお浄土や、あの世とはっきりと認識しておりました。
また向かっていくのは何かというと、それは魂であったり、霊魂であったりと、そういう理屈の理解も致しておりました。その理解度の元で、葬送という言葉を、長い間使ってきたのです。

それが、ある時期から「告別」という言い方に変わってしまいました。これは戦後、経済成長の時代から始まったようですが、「魂をあの世へ送る」というよりは、「死んだ人と別れる」という、別れに非常に強調点を置いた、そういう儀式となったのです。だから、どこに送るのか、何があの世に行くのかということよりも、誰と誰が別れるのか、またその別れの悲しみ、苦しみ、そういうものが強く意識されるようになってきたのです。そして、どのようにして別れの儀式をやっていくかということで、核家族化も重なり、個別化と申しましょうか、新手の商法化したお儀式形態が生まれたように思われます。

ですから、現に昔はなかった自然葬、樹木葬はたまた、宇宙葬等さまざまな葬儀の形式が生み出されてきたのです。ただ、別れるということに重点を置いた為に、生きているうちに死とどう向き合うか考えることをせずに過ごし、それ故、自身の大きな問題になってきたと思われます。今、自分の臨終に現代の人々は迷い、苦しみ始めている気が致します。

昔、人生五十年と言われておりました。そんな短い時間だからこそ、人生五十年というのは、生きるということ、即ち死を覚悟することであり、死ぬということを意識することによって、逆に生きる力となっていたのであり、生と死の非常に緊密な関係にあったのです。

ところが、この20〜30年の間に、われわれの社会は、あっという間に人生八十年になりました。その伸びた三十年の生と死の間に、老いの問題と病の問題が生じました。この老いと病の問題について、現代社会は政治も経済も含め、まだ十分に対応できてない状況にあるのです。過去の街頭アンケートでは、希望は自宅で臨終を迎えたいが、おそらくそれは叶わぬ夢で、実際は病院で臨終となるだろうという意見が大多数でした。

本来の希望と現実の隔たりがあればある程、その不安な状況が、老いと病の先にある死の問題を、より不安な問題としているのではないのかと思います。食事も粗末で、医療も進んでいない人生五十年時代が全て良いとは申しませんが、少なくとも老いと病に苦しめられることはなく、むしろ死とは何かと真摯に向き合わなければならない時代であったと思われます。

今の現代の苦に満ちた世の中を生きていかねばならぬ我々は、経済のスピードの中、「死に向かい、考える」意義を忘れがちになっているのは事実です。精一杯生きる事、即ち「死を理解し受け入れ」、今既に「死に向っている」という事実をご理解頂けましたら、今一瞬の尊さと大切さを感じると同時に、人生観が大きく変わり、結果「安らぎ」を覚えるのではないかと思われます。

今一瞬に念仏
輝空談