生き様と死に様
秋たけなわの時分になりました。朝夕の気温の低下に首をすくめて暖を取りたくなると、木々の葉は一気に色を添え始め、気が付くとあたり一面が紅葉で彩られます。そして、澄んだ空気が人々を野山へと足を向かわせ、紅葉を愛でたくなる気持ちをそそるのです。
そんな誰もが待ち望んだ登山日和に、多くの登山愛好家を御嶽山へと向かわせました。そしてその御嶽山がまさかの水蒸気爆発を起こし、大噴火したのです。
誰が予測できたでしょうか。未経験者でも登りやすい御嶽山に、家族で、友人とで、またはサークルでと笑顔に満ちた一日が、生死を分けた出来事になるとは予想もしていなかったのです。
そして大事故の悲劇の中、山頂に居た人、中腹に居た人、山小屋に逃げた人、自力下山した人、リュックに固いものが入っていた人、全てが神がかりな運命により、命の明暗を分けました。
私の敬愛するA先生が山をこよなく愛し、時間を見つけては山に登られる方なので、家族で最初に震災を知った次男は、矢継ぎ早にA先生の安否を私に問いただしておりました。しばらくしてA先生より山には登ってはおらず無事であるとメールを頂きました。
A先生のメールには、「どうして私ではなかったのか」と自己を見つめている言葉が残されておりました。
その言葉を目にし、ある登山家のコラムが思い出されました。
その方は、山というものは、自然という在り来たりな言葉では語りつくせず、神か仏かが山に姿を変えて自分を待ち受け、これでもかこれでもかと、危険な問題を投げかけ私を試し尽くす、と語られておられます。
そしてその危険な問題で一つでも選択を間違えると、死が待っており、なんとか危険を乗り越え、命がけで下山し終えると、その山は自分にご褒美をくれるかのごとく、輝いて見えると述べられておられます。それが山を登り続ける魅力ともおっしゃられました。しかし絶対に忘れてはいけないことは、いつでも死が隣り合わせで、自分と死との距離を確認しておかないといけないそうです。そして最悪な事態がいつ起きてもおかしくないと想定し、ある句を常に思い描くようにしているそうです。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」これは細川ガラシャが死を決意した際に読まれた句です。人の命は生きる努力をするものであり、且つ生きているから死すものである。その死は、時期が来れば間違うことなくやってくるものだと、花の潔い散様に教えられています。この登山家はこの句をあえて頭に描く事で、冷静にかつ淡々と状況を見据える事が出来ると語られておられます。
この登山家は山を神か仏かと捉えることで、山が生き物だと実感しているのでしょう。「山が生きている」そう考えると、何度も同じ山を登ぼり続ける気持ちがなんとなくわかる気が致します。
この登山家のように、私ども仏教徒は心の中で死を理解し、死を心に留めております。自分の死を描く事は、恐怖ではなく物事の道理であると悟る事が出来たならば、少しもたじろぐことはないはずです。そして死後の道は、阿弥陀様にお任せしているから安心だと知っているからこそ、誰もが愛する人との懇情の別れを体験しても、悲しみの淵から立ち上がれるのではないでしょうか。死を恐れずに生きる事、即ち死と共にあることを知り、生きる意義を知っておかねばなりません。
その意義を教えて下さっているのは生きている人からではなく、亡くなった方の生き様と、そして亡くなり様から教えて頂いているのだと仏縁の感謝に堪えません。
そして最後に御嶽山でお亡くなりになられた方を忘れず、ご冥福を祈念申し上げ、私も残された時間を命ある限り生きぬき、布教せねばと切に思いました。
合掌
輝空談