泉輪 平成26年春彼岸にむけて



平和の意義とは


寒さの中にも梅の開花や、つくしの姿に春を感じさせるこの 頃です。

とは申しましても、まだまだ寒い日が続いており、季節感が薄らいできた昨今にしては、今年は積雪も多く、しっかりと冬を感じた年だったのではないでしょうか。

その寒さの中、ソチでは寒さをもろともせず、厚い闘志で繰り広げられた冬季オリンピックが開催されました。二年ごとに冬季と夏季のオリンピックが行われることはご承知の事ですが、冬季オリンピックの歴史は意外にも浅く、二千五百年以上も前から行われている夏季オリンピックに対し、冬季オリンピックは、まだ八十年程しか歴史はありません。

そもそもオリンピックの発祥は、古代ギリシャの神の祭典の力自慢儀式が始まりで、神聖な神にささげる儀式故、男性が全裸で競技に参加せねばならなかったようです。また、その古代オリンピックも太陰暦と太陽暦が重なる八年ごとに行われていたそうで、後に今のように四年ごとの開催へとなりました。

古代オリンピックは戦乱により絶えてしまいますが、千五百年の時を経て、古代オリンピックは近代オリンピックとしてもう一度火をともすことになりました。
その立役者がクーベルタン男爵で、彼の言葉に「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」と明言を発しました。その精神は、国籍、人種、政治、宗教を超越し、ひたすらに競技に取り組む事からオリンピックは世界最大の平和の祭典と目されております。しかし実際は、主催国と首脳陣が会議をしたり、近隣諸国と内戦があったりと穏やかではありません。本来のオリンピック精神が簡単には根付いてはいないようです。

どうして、平和な世の中は簡単に手に入らないのでしょうか。国同士、民族同士の対立、平和国として名高い日本でさえも、近頃は簡単に身近での殺人が連日報道されております。何故このようになったのでしょうか。

確かに昔より殺人事件は多くなりました。でも昔でも暴力的な人、ケチな人、意地悪な人も居たはずです。ただ唯一違うのは、それぞれの個人が、自分の現状は仕方のないもので、今はどうすることもできないと知っていたのです。
諦めとか、投げやりに考えるのではなく、誰しも苦しくつらいことは起こるのだと客観的に悟っていたのです。そして、我慢の冬だからこそ、喜びの春を感じていたのです。

今はそれに対し、金品にしろ、恋愛の感情にしろ、何とか簡単に奪ってやろう、自分の立場を優位にしてやろうと都合のいい最終目的だけを掲げ、でも実際にはそれを達成するだけの筋道を立て、それに向かってひたすら努力するという行為はないがしろにするのです。だから、短絡的に物事が思う様にならないのなら、目の前のその物の存在を消して自分の不快を取り除くと簡単に結論づけてしまい、結果、殺人が頻繁におこってしまうのではないでしょうか。

仏教をお開きになったお釈迦様は、今目の前の出来事にはすべて遥か彼方の因果によってもたらされているもので、目に見える物だけが、全てではないとおっしゃられております。
だから、目の前の物を取り除いても、決して何も変わることはない。そして、その因果によってもたらされた出来事全てに意味があり、次につなげる目的があると説かれました。
良い出来事でも、避けては通れぬつらい出来事が降りかかってきても、それは遥かかなたの仏様やご先祖様が今めぐらせ下さり、学べよと伝えられ、次世代へ教え諭せと与えて下さっておられるのです。

オリンピックに出た各国の選手もそうです。単に身体能力が高く、超人な肉体をもっていたという目の前の事実だけではなく、長い歴史の中から生まれた深い意義の終結が彼らの存在であり、その精神なのです。
そして我々はそれを目にすることで、その姿から私たちに心の鍛錬の材料となる議題を投げかけられ、小さな心の変化をもたらしてくれるのです。そう思えば、結果が、金であったりメダルが取れなかったりとは、薄っぺらな話題に思えてなりません。
むしろ七十一億人の中の掛け替えのない数人の人で、歴史の積み重ねの申し人と思えば、オリンピックに出たすべての人に拍手を送りたいものです。また、皆がそう思える時こそ、真の平和を知るのではないでしょうか。                       合掌  輝空談