泉輪 平成27年12月



光と智慧


十二月に入り、寒さ厳しい時分となりました。確か秋口に今年は暖冬であると気象予報士が口にしておりましたが、やはり冬は冬。寒さがつきものです。
そんな折、十二月一日にあちこちの会場や広場でイルミネーションの点灯式が行われました。その点灯式にカップルで立ち会うと、恋愛成就するとかしないとか、若者の気持も高まることでしょう。

私の子供の頃には、街並みにイルミネーションなど存在せず、それが時代の流れで今では、十二月に入ると一斉に色とりどりに点灯するので、あちこちが賑やかになると同時に、早くから暮れを印象付け、そわそわさせます。

このイルミネーションは、キリスト教のクリスマス行事で、教会で行うイエス・キリストの誕生祭が期限である事はご存じの事でしょう。キリスト教では厳かにロウソクを灯し礼拝する行いに加え、中世になるとドイツの神話劇でアダムとイヴの物語を演じた際に使用された樹木に由来したクリスマスツリーの習慣が生まれ、またクリスマスツリーに飾りつけるイルミネーションを施す風習は十九世紀以降のアメリカ合衆国で始まったようです。
また、サンタクロースは、キリスト教の聖人ニコライ(ニコラウス)の伝説が起源とされる・・

いえいえ仏教徒である私がクリスマスにまつわる話をしても何なのでございますが、このイルミネーションなどの光は実はキリスト教だけでなく我が仏教でも大切な意味と働きがあるのでございます。

仏教では光(光明)を仏の智慧の象徴と受け止め、この智慧の光には私たちの迷いを破る力があると説いています。確かに、我々はよく仏の智慧と口に致しますが、では実際には何なのか、はたまたどうすればもっと身近に感じる事が出来るのか、そう問われてみると分かっているようで、分かっていないような、分かりにくいと口にするのもなんとなく憚(はばか)られるような、そんな風にお感じの方も居られるでしょう。
そこで今回は光(光明)と仏の智慧を少し掘り下げてみたいと思います。

仏教に於いての最も古い光に関しての諸説は、調べてみる限りの判断ですが、お釈迦様の十大弟子のひとりである「シャーリプトラ」の逸話ではないかと思っております。

シャーリプトラとは、お釈迦様の弟子の中で、智慧第一と称され、目連尊者と共にならぶ二大弟子と呼ばれております。シャーリプトラを語る際に、最も有名な話がございます。
それは、お釈迦様の弟子の一人が釈迦教団と意見対立し、仲間を引き連れてお釈迦様の元を去ろうとした際、シャーリプトラが追いかけて弟子たちを引き戻そうと説得しました。その際、彼が説法した時に起きた「ブロッケン現象」に弟子たちが驚き、引き戻る契機になったともいわれております。そのブロッケン現象とは、太陽などの光が背後からさしこみ、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象をいいます。
仏教神話ですので、どこまで信憑性があるのか定かではありませんが、智慧深き者と光の結びつきが伺え、それから智慧の象徴を光で表すようになったのではと推測しております。
因みに、般若心経を称えた方ならお分かりかと思いますが、「舎利子(しゃりし)」という言葉が出てきますが、それは、シャーリプトラの漢語読みでシャーリプトラのことを指しております。

これでお分かりのとおり、シャーリプトラという人物はお釈迦様が太鼓判を押す知識人でした。その知識人のシャーリプトラは、そもそもは、自分の知識でお釈迦様の上に立とうと勢いよくお釈迦様の前に現れたのです。博識ある人は王たちよりも皇帝たちよりも大物とみなされた時代です。シャーリプトラは必ずお釈迦様を超える事が出来ると自信に満ち溢れていたのです。そのシャーリプトラを前に、お釈迦様は討論を拒み、ただ一年沈黙を持って私の傍に居なさい。その沈黙の時間の中で学ぶことがあるからと一言伝えただけでした。
そしてシャーリプトラはただお釈迦様の傍にいるだけの時間で気づいたのです。自分にはだれにも負けないだけの知識は豊富だが、それは辞典、辞書と同じでその知識を使い、その先どう正しく生きるか考える心が無かったことに気付かされたのです。

2500年経っても、今もなお、お釈迦様とシャーリプトラの導き出した智慧という言葉を我々は使っているのは、その行為は、時を経ても人間の愚かさが同じだからです。
現にいくら外国語を頭の中で熟知していても会話をせねば意味はなく、法律を知っているならば世の中にいかせる行為をしなければ知っている意味すらないのです。
あれも知っている、これもやったことがあるでは絵に描いた餅その物で、知り得た先に、自分で何度も何度も経験し、時には失敗や反省と試行錯誤の回り道でやっと一つの道筋が見えてくるのです。何度も挫折と後悔の連続の中、もがき苦しみ、血のにじむ努力は尊い行いであることはもちろんです。

しかし、智慧とはその努力そのものではないのです。あきらめずに続ける事が出来た環境を選ぶその行為を智慧と申すのです。その環境が無ければ続けたくとも続けられないのです。それに心から気づけば、自分の健康や親の恩、周りの協力、助言、全てに感謝できるものです。
智慧を得るとはすなわち、最終的に感謝が出来る心に尽きるのです。その思いでご自身のお仏壇や泉福寺の仏様を見てみて下さい。
見えなくとも、我々を間違うことなく仏様が照らし導いて下さっていることに感謝せずにはいられないのです。その見えない光に暖かさすら感じるものです。

皆様、慌ただしい暮れですが、今年一年の無事と、今まで生かされたことに感謝を持ってお念仏下さい。何よりの至福の温かみをお感じ頂けるかと存じます。

合掌 輝空談