泉輪 平成27年9月



末法期浄土宗の真髄


残暑お見舞い申し上げます

さて、以前の新聞「いずみ 二十三年五月号」に、仏教の末法思想について書いたことがございます。その一部を抜粋致しますと、お釈迦様は二五〇〇年前に仏教の行く末を三つに分けて考え、仏教を開かれて以来千年の時代を正法(しょうぼう)、次の千年を像法(ぞうぼう)、その後一万年を末法(まっぽう)と悟られました。末法とは、お釈迦様の教えが人々に及ばなくなった時代を指し、仏法を必要としない時代と説かれました。

日本に仏教が伝わったのが約一五〇〇年前で、お釈迦様の思想から申しますと、像法(ぞうぼう)期に日本仏教が誕生したことになります。そして今現在が、お釈迦様のさす「末法」の時代です。前述の言葉通りに理解しますと、お釈迦様の教えが人々に及ばなくなった時代、仏法を必要としない時代という事になります。単純な直訳的に考えますと、もう仏教事態が腐敗し、世の中の人々が仏教信仰を捨てたように感じませんか?

しかし現実は、過日のお盆法要には、泉福寺納骨堂には入りきれない程の檀家様がご参詣され、その人波は途絶えることがございませんでした。年配者から幼子まで、ご先祖様の眠るお霊家(納骨壇)に間違うことなく歩み寄り、一心に念仏を称えるのですから、仏教の腐敗はみじんにも感じ得ません。「お盆にお参りするのは当たり前やろうもん。」と、鐘崎弁が聞こえてきそうです。それくらいごくごく自然にご先祖のご供養を皆様はされているのです。

ただ、別の解釈でご説明致しますと、確かに末法時代に突入し、お釈迦様の教えである仏法を必要としない時代という事は甚だ間違いではないのです。

と申しますのは、仏法というものはお釈迦様本人が、この世に生きているときに悟り得たものであります。それに引き替え、今私どもが日頃信心致しております仏教は、法然上人が開かれました「浄土宗」でございます。他を見渡しましても、現在浄土宗を含み大きく十三宗派あると言われております。そのどの宗派にも、開祖(その宗派を開いたお坊様)が居られ、その開祖の教えに従い、日々修行しているのです。

ですから、普段の生活の中で、お釈迦様を前にして手を合わせてはいるものの、実際私どもは、開祖法然上人の教えを頂戴し、一年を通し浄土宗の作法で「南無阿弥陀仏」とお称えしながら、ご先祖様ご供養をしているのです。事実、お釈迦様が生きておられるときに「南無阿弥陀仏」というお念仏事態無かったのですから、お釈迦様とは隔たりがあると言えなくもありません。
そう考えますと、末法の時代のお釈迦様の教え、仏法を必要としない時代というのも当たっていると言えなくもないのであります。

だからと言って、お釈迦様を否定し、必要としていないのではなく、お釈迦様が仏教の偉大な原点を作り出し、高僧たちはお釈迦様没後、いかに多くの人々に仏教を広めていくかと苦慮の上、多くの経典を残し伝導に勤めたのです。日本でも同じく各宗派の開祖は日本で頻発したあらゆる苦を前にし、どのように解決するか手を尽くして、己の信念の元、探求尽くした結果、宗派確立に至ったのです。

時に、法然上人修行の時代はと申しますと、比叡山で天台宗を学んでおりましたが、その時代は政権を争う貴族だけでなく、権力を持った僧侶間の内乱と、治安が悪化し、それに加え飢餓や疫病がはびこるとともに地震、干ばつなど天災にも見舞われ、人々は生きる事さえ困難な状態にあり、希望を見いだせない時代でした。そんな時だからこそ、救いの心が必要とされたはずです。

ところが当時の仏教は裕福な貴族のための宗教であり、不安におののく民衆を救う力とはなっていなかったのです。学問をして経典を学び、厳しい修行で自己の煩悩を取り除くことが天台宗で申す「悟り」であるとするのならば、仏教とは働かずとも勉学だけに勤しむ事が出来る一部の人のものであり、最も必要としている貧しい民衆には仏教が無縁の状態に置かれていたのです。
そうした仏教の在り方に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な経典の中から阿弥陀仏のご本願である「南無阿弥陀仏」と、ただ称えるだけで、すべての人々が救われるという念仏の道に辿り着いたのです。これこそが民衆を救える唯一の道と信じ、己の運命を形にした時が、一一七五年、法然上人が四十三歳の春のことと記されております。

その「み教え」は八百四十年以上の時を経ても、枯れることなく今も尚、我々に脈々と受け継がれ、安穏を導いて下さっております。お釈迦様による仏教誕生二千五百年、日本仏教誕生千五百年、法然上人による浄土宗誕生八百四十年、この気の遠くなる時間の中で、絶えず仏様がお側におられ、我々を守り続けられたことに有難さと、安らぎを覚えます。
お盆が終わり、彼岸を迎え、念仏を称える機会が多い今こそ、その長い月日の重みをお感じ頂ければと存じます。

そして、法然上人が八百四十年前に内乱の苦を案じたことが、よもやこの現代において、しかも、戦後七十年の節目の年に、まさか日本が戦争に加担するやもしれない法案を導く政治が、もし、はびこっているとするならば、法然上人の浄土の真髄にて平安をお導き頂かねばと、切に願っております。

その為に、法然上人開宗の真意を再認識し、檀信徒皆様の心の携えの元、いっそうの念仏精進に勤めると共に、今こそ平和の礎となる仏教であらねばと思っている次第でございます。

平和祈願念仏 輝空談