泉輪 平成26年8月



自分のルーツを考えて


季節は移ろい、五月の菖蒲が花を落とすと、梅雨の恵みで蓮の葉は勢いをつけ、七月に喜びの花を咲かせます。仏教教義の根源の意味で、泥から生え育ち、気高く咲く花と、まっすぐに大きく広がり、水を弾く凛とした葉の姿が、この世に渦巻く「欲」という煩悩にけがれることなく、清らかに生きることへの象徴にとらえられる蓮の花だからこそ、通り行く人々は年に一度のその花の再会に穏やかな笑みを浮かべてご鑑賞下さいます。

しかし、そんなうららかな心地とは別にお寺では、蓮が咲いたぞ・・夏が来る・・お盆だ・・施餓鬼だ・・と、法要の準備に掻き立てられ、少しざわついた心地になるものです。お寺だけではなく、どのご家庭でも、お盆が近づくにつれ、日頃やっていない家の掃除、仏壇の片づけ、初盆参りの確認と、普段より慌ただしい事がおありではないでしょうか。

この時分に「お盆」と耳にして、我々日本人には違和感はないものです。しかし、世界中に仏教国は数々あれど、実際には、お盆法要は日本唯一の固有の仏教行事です。

普段皆さんの中で、我々の国、日本が仏教国であるとしっかり捉え、常に認識して生活することはないでしょうが、お盆が来ると、それを証明するかのように、まさにそうなのだと、私は感じる現象が起こります。地球上で世界経済の中心を担っていると申しても過言ではない日本であるにも関わらず、自国がお盆だからという理由で、日本中の各業種の企業が盆休みを設定し、長期の休暇を取り、一旦政治と経済の全ての動きを止めるのです。

現在の一部の人で、自分は無宗教だからと口にする人がいますが、そんな人でも盆休みを取り、お墓参りをします。無宗教だからお盆とは自分は無縁で、休みを取る理由がなく、仕事をします、と発言した人は見たことがありません。

また、お盆になると、毎年その時期だけ値上がりする商品があります。値上がりする理由が、子供が夏休みだからということであれば、人は納得しませんが、お盆だからこの時期は値上がりしても仕方ないね、で済ませており、 それ以外の反論も出てはおりません。

そう考えれば、自分が意識しなくても、自身の生活が仏教徒であると示しているのが、このお盆法要で見て取れるのではないでしょうか。現にお盆だからと多くの人が帰省し、帰省出来ずとも遠く離れて生活をしていたら、実家を思い、先祖を思い、過去に思いをはすことができるのですから、「お盆」とは心から日本人に根付いた仏教行事といえるのではないでしょうか。

では、世界中に仏教国がたくさんある中、何故日本にだけお盆法要をし、先祖供養をするようになったのでしょうか。

仏教とは、言わずと知れた三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)の一つである世界宗教とはご存知の事かと思います。その仏教と他の二宗教と比較してみて、決定的に違いが、お墓に対する考え方です。

キリスト教徒の方のお墓は基本「個人墓」で、亡くなった人ごとにお墓を設けます。イスラム教はどんなに偉い身分の人でも埋葬した後は自然石を置くぐらいで、その後そこを訪れることはめったに無いと、書物に書かれております。

それに引き替え、仏教徒のお墓は先祖代々が集合して埋葬されているので、自分の誕生ルーツの脈歴を墓石なり位牌なりとで、目で見て無意識に情報を刷り込むと同時に、自然と先祖崇拝意識を高める環境要素が備わっているのが日本のお墓にみて取れます。この慣習は、島国日本の領土の狭さがそうさせるのであって、もし国土が広大で異国と隣接し他文化を取り入れることに抵抗がなければ、また違った日本仏教であったことでしょう。

この流れは、他宗教(キリスト教・イスラム教)でも、日本国内に限っては、集合墓になってきているようです。この現象から見てもお分かりのように、日本人は、日本に合った状態をうまく作っていく事が上手な民族だとよく分かります。

なにはどうあれ、中国から伝来された仏教を独自の民族思想で受け入れ取り込み日本人らしく育ててきた「お盆法要」を千数百年の歴史意義を感じつつ、恒例の習わしとして営みをしてみれば、また違った「お盆」をお過ごし頂けるのではないでしょうか。

因みに我が家では、三男・萬斎が七月末に総本山光明寺に於きまして得度式を受けます。 

家族男子全員の僧籍を得て、さぞや今年から神々しいお盆を過ごせるのではないでしょうか・・家内の怒鳴り声、兄弟喧嘩の罵り合い、これで卒業であると信じて、お盆法要渾身のご供養を厳修させて頂きます。

合掌
三男にため息の輝空談