泉輪 平成26年4月



子供の成長を願い


三寒四温を繰り返すうちに、あっという間の春真っ盛りになりました。

そんな春のある日の事です。耕した田んぼの片隅に数人の子供が小さな輪になってしゃがみこみ、一心に何かをしています。虫でも見つけたのか、泥団子を作っているのか、通り行く車からの視線など気にもせず、とにかく楽しそうで、キラキラした目と白い歯が遠くからも眩しく見えます。その子達は、ランドセルに黄色の交通安全のカバーをつけているので、ピカピカの新一年生だとすぐに分かります。小さな体にまだ馴染んでいないその大きなランドセルの幼子は、あどけなさと、頼りなさが入り混じり、その様が何ともいえず愛らしく、目にするだけで、自然と車の事故に合わないように、健康で過ごすように、知らない人に付いて行かないように、と心配し、たくさんの友達と巡り合い、勉強の中で将来の夢を描き、大きく成長するようにと他人事なのに勝手に思いをはせます。他人の私がそう思うのですから、親御さんの思いは尚更の事です。

そういえば、我が家もそんな思いを遥か彼方の昔、長男で経験をしました。一人で学校まで歩いて行けるか、帰ってこられるか、数々の心配の中、時は過ぎ、やがて次男も入学したのですが、されど二回目なので多少の心配で済み、三男に限っては、心配どころかいつ学校に行って帰ってきたかもわからず、それどころか、塀に上っている、川に入っている等、危ないとお叱りの電話や、学校帰宅途中で野グソをし、フリチンでパンツを振り回して帰って来ていると衝撃のお電話を頂くなど、トラブル連発でした。そんな三男も皆様に育てて頂き、何とか小学五年生になりました。我が子も皆様のお子さんも、どの子も成長し、やがていやでも出て行かねばならない社会という大海原で強く生きていく術を養い、自身を育んでもらいたいものです。

四月という月は、不思議と過去を思い出させ、未来を考える節目の月だと思います。
 そんな時、朝日新聞の小さな記事が目に留まりましたので、皆様にご紹介致します。

折々のことば     鷲田清一

自分の経験から学ばねばなりません。しかしそれだけでは小さすぎる。      やなぎみわ

自分の独自性を確認したくて、というかそれを確認しなくては自分の存在がもたないような気がして、他人にはない素質や体験を見つけようと、自分の過去をほじくり返す。 こうして世界がどんどん縮こまってゆく。
 <わたし>は、囲われた敷地ではない。他の人たちとの関係が、歴史のいろんな文脈が、交差する場である。

意表をつく作品を創りつづけてきた美術家のことば。

(朝日新聞より)

このことばを自分の心に据えて考えてみました。過去の経験は苦しければ苦しいほど自分を強くし、成長させてくれるものです。でもその価値にしがみついてばかりいると、時としてその経験が自信から愚かにも傲り(おごり)へとなる事があるのではないでしょうか。
 傲りは、他人と比較し相手を下げすむことから生じる心理ですから、愚かな行為としか言いようがありません。時は常に移ろい、川の流れのように一時として同じ状態ではないのですから、その一瞬の過去の出来事にしがみついて物事を語るとは、まことに小さな器です。

私のように人生の縮図に凝り固まってしまった人間では、今更、柔軟性を増すことは出来にくいものですが、あの田んぼで見かけた幼子は、今からいろんな経験を重ねていくことでしょう。そしてコラムのように自分の枠を大きく広げ続けて欲しいものです。

そんな純真な子供たちが五月十日お釈迦様の誕生祭・花まつりに参列してくれます。健やかな成長を願い、皆様と共に多いに祝い、幸多かれと祈念致しましょう。

合掌
輝空談