泉輪 平成28年春彼岸にむけて



小さな人生論〜徳をつくる〜


お彼岸近くになり、木々の芽吹きから、冬の遠のきを顕著に感じるこの頃です。我がお寺、泉福寺新聞「いずみ」も十二月暮の発行からこの時分まで小休止となるため、やや鈍った感のある原稿書きが始まるのです。 さて、以前お寺の梵鐘(ぼんしょう)にかかわった業者様が、あいさつにお見えになり、名刺とその会社の宣伝ビラを置いて行かれましたので、何気にチラシに目を通してみましたら、大変興味深い記述がございましたので、お披露目致します。

題して 「小さな人生論〜徳をつくる〜」
(原文そのままの掲載です)

こういう話を聞いて慄然としたことがあります。アメリカの家計調査報告に残る記録です。
ジュークは一七二〇年ニューヨーク州に生まれた。怠惰な無頼漢であった。一八七七年の調査では、彼の家系は六代を経る中で千二百人の怠け者、病弱、犯罪者が生まれた。この間、三百人が幼少期に死亡、四百四十人が病的な行為で肉体的に破滅、前科者は百三十人で、六十人が窃盗、七十人が殺人。手に職をつけたのはわずか二十人だった。
ジュークと同世代に生まれたJ・エドワードは代表的清教徒で神学者。千九百年に彼の家系は千三百九十四人を数えた。そのうち、三人が大学総長、六十五人が大学教授および学校長、百人以上が牧師や神学者、七十五人が陸海軍将校、法律家は百人以上、公職についた八十人の中には、副大統領が一人、上院議員三人、ほかに知事、下院議員、市長、公司などがいる。十五の鉄道、多数の銀行、保険会社、産業会社などがこの家系の人々によって運営されていた。
一人の人間の徳の有無がいかに大きな影響を及ぼすか。私たちは肝に銘じなければなりません。安岡正篤師はその著者「人物を修める」で人間を人間たらしめる要素には本質的要素と付属的要素があると、説いています。本質的要素とは徳性であり、徳性とは明るさ、清さ、人を愛する、尽くす、恩に報いる、誠実、正直、勤勉、などの貴い心の働きのことであります。それに対して、知識、知能、技能などは徳性の発露を助ける付属的要素です。しかし、徳の本質的要素が欠如したり希薄に傾けば、付属的要素は、偽や奸や邪に陥ると教えています。天地の大徳を生という、と「易経」はいいます。人は天から徳を授かってこの世に生まれます。人は誰でも有徳の子なのです。しかし、耕されない沃野が荒野と化すよう陶冶がなければ徳は干からび、涵養されません。常につくり続けなければ、徳は育たないのです。(以上)

この記事には一八七七年の調査と記載されておりますので、百三十年以上前のこととなります。時代背景が違うので、教育法施行や治安環境、もしくは一部の富裕層と貧困層では資本主義の概念すらないような時代だったかもしれません。

しかし、この記述が教えて下さっているのは、人の心の働きについてです。これはどんなに時代が変わろうと、世の中が近代化されようと、人間がこの世に存在する限り変わらないことでしょう。それ故、人々の心の方向性で、愚かな行為が堕落へと走らせ、それを食い止める為には、強い実直な心を持たねばならないことを教えて下さっております。

思い出してみて下さい。冠婚葬祭で御親族がお集まりになると必ず遠いご先祖様の話に花咲き、あんな時代だった、こんなことがあったと語り合うものです。その何気ない会話の中で私たちは、ご先祖様の在り方が基準物差しとなり、どのような環境のどのような境遇で、心の持ち方はこうあらねばならないと、その会話の中から自然と刷り込まれているはずです。

ですから、会ったこともない遠いご先祖様に手を合わせ、今のご自身の感謝の心が育まれているのでしょう。どうぞ、せっかくのお彼岸法要の自分となりましたので、大いにご先祖様のお姿に思いをはせ、お念仏下さり、ご先祖様と御自身の立ち位置をご確認されて、明日につながる叡智にして下されば、誠に幸いでございます。

先祖仏縁に感謝念仏 輝空談