泉輪 平成28年11月



言霊(ことだま)


十一月を目前にし、お寺で使う手紙の季語も、十一月にふさわしい「立冬」「小雪」「霜月」とその時期にならう、またはその状態を体感する季語を使うものです。ところが、今年に限っては、その言葉が不謹慎なくらい似つかわしくなく、天気予報は今月に入っても「真夏日」「記録更新」と夏の延長のような語録が飛び交っております。

本来ならば、その季語(立冬・小雪等)のたった二文字だけで、気候だけでなく、寝具が毛布一枚から掛布団が増え、着るものは薄手の長袖に加え羽織るものが重なり、食べるものも、温かい汁ものが好まれるように、生活に変化をもたらせ、朝の霜、薄氷、遠山の薄化粧と、まだ見ていない情景を思い出させ、言葉を目にした誰もが暖を望む立体的な映像が脳裏を過(よぎ)るのです。

特に日本語は外国語とは違い、物質そのものの単体表現より、風景、情景、過去の記憶等、複合産物を多く蘇らせることにより一層深い意味合いを求めているものと思っております。
ただそればかりの趣を持ち過ぎると会話は重く、まどろっこしく、鬱陶しさや、話し手に偏屈感を見い出すので、このように意味深い単語は時に会話の転換となるエッセンスとして使うにふさわしく、季語も、もしくはそれと同等の使いまわしの言葉は時と場合を選ぶ必要があるのかもしれません。

これとは逆に日常会話は、習慣の中の儀礼的挨拶、相手との立場距離間で必要な日常用語を用い何度消耗しても結果損傷のない言葉の序列が多くあります。俗にいうおしゃべりです。

特に友人同士なら単純会話で、登場した店に同じく行ったことがあれば、行ったと共感し、聞いたことのない内容なら、興味を示して相手の言葉に耳を傾けます。たわいもない言葉のキャッチボールはある一定のリズム感が心地よく、笑い、頷き、の連続がただそれだけで心癒します。

では、友人間で悩みを打ち明けられた場合はどうでしょうか。問題を打ち明けた側は、ある時間悩みに悩み、自分一人では解決できず、時に関連書籍を読みふけったかもしれません、時にパソコンで関連記述を読みあさったかもしれません。何度手を尽くしても進展せず、自分で出来ることをし尽くし、我慢に我慢をした結果、相手に助けを求めるのです。
その時ただ相手に話を聞いて欲しいだけの場合もあり、話し、胸の内を口にすることで心の整理ができ、リセットができる場合もあります。それに引き換え、悩みを解決して欲しいときは別でもっと複雑です。

そもそも、「悩む」という行いは、明確で単純ストレートな答えを手にしたいのに、その答えが手に入らず、同じところをぐるぐると回っているような状態で、一日中大げさに言えば寝ていてもその思いが消えず、出口の見えない迷路に陥った不安と苦しみと、もがきを言います。一方、似た行為に、
「考える」という行為があります。考えるというのは、答え探すのではなく、 むしろ大方の答えは出ていて、それが正しいのか再確認してみたり、答えに至る問いを自分の中でもう一度設計図を書くことのように思います。やはり悩みは、その問題の大きさを表現する際「悩みの深さ」と、「深い」を用いるようにちょっとやそっとでは抜け出せない、絡み合った難しさを伴うのです。

そのような状況を相手は聞き手にいかに分かってもらおうかと必死に訴え、聞き手も相手の気持ちを一つでも取りこぼさないように必死に耳を傾けるのです。必死に話し、必死に聞いて、「そうだね」「わかるよ」とあっさり肯定してしまえば、長い時間悩んだ時間に対し、答えがあまりに軽くて話して聞き手の温度差が生じたのかと判断し、冷淡なそっけなさが出てしまいます。話し手は、やっぱりわかってもらえない、わかるはずがないと反発心を覚えるのです。

本当に共感し相手と同じ目線に立ち「わかる」といえるなら、話し手は話した勇気が報われ、安堵と解決の糸口を共に探してくれる期待感が生まれ、と同時に聞き手は、相手の立場にどっぷりつかり、同じ苦しみを共有し、自分のことではない問題を共に悩み、他人の悩みに今度は自分が、もがき苦しむようになるのです。

話し手は、同じ一つの荷物を一人で抱えるより二人で抱えたほうが軽くなる計算は、半分という心の分かち合いでいいでしょう。

逆に聞き手は、持ってしまった他人の心の荷物を持つ勇気、持ち続ける忍耐、時に決別をもって他人の心の荷物を置き去る決断力、その全てができる人でないと簡単に悩み相談を受けることなどできないのでしょう。

それくらい互いの中で生じた言葉への責任を考えていれば、話し手、聞き手の立場と言葉選びが常に行われ、喧嘩やいじめはもっと減らせたはずです。

私は口下手で会話上手ではありませんが、ただ日本古来の言霊現象(ことだま)はあると信じています。千二百年前に書かれた書物万葉集には、日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」と記されております。声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされてきました。現代の言葉の乱れがいじめに直接関連付けるには安直かもしれませんが、本来の日本語のすばらしさである情緒要素を含む言葉や、言霊のように表現に伴う心の責任をもって、コミュニケーッションが恒久的に行われるならば、穏やかに「いじめる事」事態が場違いな光景となり減少するのではと思います。

そして、言霊の精神をもって、口から出る言葉、目で見て感じる文字の深みを品格の形成に役立て、今我々にはそこが欠乏していると、今の気温に合わない「立冬」「小雪」の季語が戒めに教えて下さったように感じるのでございます。

合掌
輝空談