泉輪 平成29年12月



輪廻の宝灯


あっという間に暮の時分となりました。急な気温の低下にまだ体が慣れてなく、背を曲げて体温の低下を本能的に温存しようと縮こまって歩く姿が、極寒の到来を物語っております。

家の中では年賀状、大掃除、子供のお年玉と、暮の季語が飛び交い始めるのも今時分のことでございますし、テレビの番組も年末の特番が、多く番組欄を占領しているのも十二月ならではのことでございます。
そんな中、先日数ある番組の中から「救命救急24時」という番組を拝聴致しました。
あえて、拝聴という言葉を用いるには、現場の医療関係者のプロ意識に感服し、ただのテレビ番組という趣味娯楽の言葉では一線を引きたいと思うほど、敬服致しました。
実際私共人間は、病院に行くことが大好き、入院や治療が楽しみだと思う人はいないでしょう。できる事ならばご縁を持ちたくない所が病院なのではないでしょうか。
そうして遠ざけて生きていくことが出来るように、病気やけがに気を付け、日々用心して生活しているのが人間の常でしょう。

しかし悲しいことに、突発の出来事があり、救急搬送され、自分の意識もなく、自分ではどうすることも一切できない上に、のっぴきならぬ一刻をあらそう患者という立場になろうものなら、お任せするしか他ない「まな板の上の鯉」状態なのです。
その状況の中、今以上に悪化することのないように現状把握保持をしつつ、どういう処置をするのか、治療の最善の方法を瞬時に決めなければならない多方面を同時進行せねばならないという能力のたけた医療スタッフの戦場のような取り組みに頭(こうべ)を垂れることしかできませんでした。

私のように生きるということと真逆の、人の死に立ち会う、向き合いことを強いられている僧侶という立場では、お会いした方がどのような生き方やお亡くなり方をしたのかは、基本知り得ることはございません。
しかし実際には、お亡くなりになるまでの最後の最後の命の灯が燃え尽きるまで、医療の行為が真剣に前向きに最全力で施され、命と向き合い、多くの人の手が関わっているのだと痛感させられます。

そして多くの方が、医療技術と最先端機器により、命を落とすことなくこの世に留まることが出来ているのです。
しかし、悲しいかな、寿命全うし、お亡くなりになることで私ども僧侶の引導によりあの世にお返しするお命もあるのも現状です。生かされる命、お浄土にお返しする命。
言葉だけ目にすると、喜びと悲しみと同じように、真逆のことと思われがちです。
実はそのお命は全く同じなのです。
この世にやってきたのも仏様のご意志で、お亡くなりになるのも仏様のご意思です。
この世にあろうとも、あの世にあろうとも、そのお命は何も変わっていないのです。
どこに存在しようとも、いつも懸命に輝き精進しているのです。

強いて違いがあるとするならば、この世では体という目に見える物体をまとっておりますが、あの世に行ったお命は、体という物体がないので、この世の人間には全く見えません。
ですから、この世の我々は死んでしまえば全て終わりと考えるかもしれませんが、お命は脈々と生き続け、また巡り巡っていつの日かこの世に生を受けるのです。この世の人間として誕生するその命は、自分の古い友人知人だった人のお命かもしれません。
もしかしたら、自分の子孫として未来で生まれ変わるかもしれません。

それを裏付けるかのように、よく赤ちゃんが誕生した際、長老のご年配者が、ご自分のひいおばあちゃんに似ているとか、会ったこともない親族の昔の写真そっくりだったという話をよく聞きます。DNAの確率上、数代前までさかのぼると、数パーセントしか同じDNAが存在しないわけですから、そっくりな赤ちゃん誕生は、もしかしたら、ある縁深いお命の生まれ変わりが宿ったのかもしれません。

そう考えてみると、何とも暖かい素敵な輪廻感の話だと考えるわけです。

人間の力では、お亡くなりになった方、その方自身を蘇らせる術はございません。しかし、いつの日か、そのお命が形を変えて、この世に生まれ帰ってくるかもしれないお命だと考えて、一旦お浄土にお返しし、またお会いできることが出来ますようにと、願い信じて、故人様の追善ご供養をする意味もあるのかもしれません。

悲しみよりもまたお会いできることを楽しみに、願う喜びに満ちたご供養を営んでみれば、脈々と受け継がれる今の自分の命でさえ、仏様の宝灯に感謝出来、一層輝きを感じるのではないでしょうか。いつどこに生きようと、命一つ一つが仏様の手の中にあり、この世のだれもが仏の子として生き、お浄土へ帰っていく命なのです。

今仏様よりお借りしている命の尊さに更なる深い思いをはせ、年末最後の日まで感謝念仏に精進してまいりたいと思う所存でございます。  

合掌 輝空談