泉輪 平成29年11月



無量光明


過日の朝日新聞の天声人語の記事です(原文です)

1922年、米国でこんな広告がお目見えした。「広い土地や牧場、農園を守るのに理想的な武器です。全自動なら一分間に一五〇〇発、半自動なら五〇発撃つ事ができます。トンプソン銃は、簡単、安全、頑丈で信頼できます」。個人向けに売り出された機関銃だ▼南北戦争で使われ、第1次大戦で広がった機関銃は戦争を大きく変えた。エリス著『機関銃の社会史』には開発に携わった人物の言葉がある。「あの速射性があれば兵士、百人分の仕事を一人でまかなえるだろう」▼そんな危険な武器が野放しになっているのが、どうしても信じられない。米国ラスベガスの野外コンサート会場が狙われた乱射事件である。にぎやかな音楽に続く、あの連射音。もし自分がその場にいたと考える▼銃を規制すべしとの議論は米国で何度も起きては、つぶれてきた。学校で銃乱射があっても、幼児が家にあった銃を誤射して死亡しても。銃撃を防ぐため、もっと銃が必要だとの声すら出る▼「ジユウ」と「ジュウ」。銃規制に反対する人には、二つは分かちがたく結びついているようだ。自由な市民には、いつでも専制政治に立ち向かう権利があり、そのため銃がいる。かつては意味のあった議論でも今は日々の安全を損ねているだけだ▼コンサートで演奏していた一人が「私は間違っていた」とSNSに書いた。これまでの考えを改め、銃規制が必要だと訴えた。そんな声が今度こそ広がってほしい。自由な社会を銃から守るために。(終)

この記事を読み、銃について考えてみました。アメリカと違い日本の法律では銃の個人所持は認められていません。明治以前に作られ、弾薬を発射できない骨とう品はこの限りでない等の例外や、警察官、自衛官その他の国の統治にかかわる公務員職はさておき、競技のクレーン用、猟銃用等、使用目的の明確な場合でも厳しい法律の下で使用や保管は厳重になされています。たまにと申すか、頻繁にと申すか、表現に苦慮しますが、巷のニュースで暴力団等の特殊な非合法団体の抗争や襲撃に拳銃という言葉が重ねて報道されますが、それとて、私ども一般市民の生活とはかけ離れた、決して交わることのない世界と一線引いているのが、現状の日本の日常ではないでしょうか。

しかし、それはかけ離れた世界ではあるものの、現実その距離は確実に短くなっているのかもしれないとそのようなことを感じることがございました。家内が知人に頼まれて、動画の編集をしておりました時のことです。その動画に文字を入れこんだり、背景に違う写真を入れこんだり、はたまた、音楽を重ねたりと、私にはわからない作業をしておりました。
その際、何か思いつく効果音を探していたらしく、つたない動作で色々なサイトを検索しておりました。そこに「銃声音」というところがあったので私も聞いてみました。私の勝手な想像で、その音は「パキューン!パキューン!」とか「パン!パン!」とか、西部劇の様子から聞こえてくる音を想像していたのです。

ところが実際に聞こえてきた音は、「だぁっだぁっだぁっだぁっ!」や「だらぁらぁらぁらぁらぁらぁ!」と連射の音ばかりだったのです。必死になり単発の弾丸発射音の効果音を探してみると「レトロ音」というカテゴリーの中にあったのです。実際、子供たちに銃声音を口にさせると、連射の音を口にします。
若者のイメージに「銃」といえば、既に連射音しか脳裏に植え付けられていないし、いえ、銃の使用をしたこともないのに連射音が植えつけられているという事実に驚愕せざるを得ませんでした。

アメリカでは、ラスベガス銃乱射事件を機に、アメリカの銃規制の論議は活発になり、州単位で違う法律を一本化した、銃の所持撤廃や厳しい登録許可制等の法律を変えたいと願う市民の声が高まっています。
しかし現状では、既に蔓延している銃社会の規律を変えることは難しく、日本以上に貧富の差が激しいアメリカ資本主義の中での生活では、危険がいつも隣り合わせで護身用が手放せないのが実像のようです。

でも皆が皆、同じ平和と安全を互いに願う、相手を労わることが出来れば、うまく治まるものなのに、とふと考えた矢先、ある言葉が思い思い出されました。
その言葉は「忖度(そんたく)」です。

忖度とは、他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮することで、この言葉がもっぱら使われるようになったのは、最近の国会でのことでしょう。
国会議員の質疑応答の様子では、本来の忖度の意味よりも、他人の気持ちを推し量ってやって、その意向どおりに物事を相手有利に無理やり押し進めてやって、その後の手柄合戦のように、証拠の残らない裏取引のような非常に悪い言い回しのように使われております。既にその意味が定着してしまったといっても過言ではないのかもしれません。

しかし本来の「忖度」の意味は、無欲な思いで相手の心を推し量るさまを言い、実際の行脚修行の僧侶への労りの言葉と、その出会いのご縁に感謝を込めて茶湯を差し出す行いに基づいております。

そして、その真意の量りしれないという言葉は、仏教では、無量(むりょう)と申します。この言葉には阿弥陀様のお慈悲の途絶えることのない永遠を意味しております。
その阿弥陀様の無量の光明とは、その光に限りがないということで、そして、光のあたらないところも無く、且つ、その光は平等であると説かれています。と同時に、人間の迷いの生き物であり、迷いの人だらけしかいない人間界という世界にいる、そのことを気づかせるためにあるのも、阿弥陀様のお慈悲の無量光明でもあるのでございます。

「忖度」に込められた、無量の大いなる心をもってアメリカの国民一人一人が迷いを無くし、己の欲よりも相手を思う気持ちが勝れば、銃の所持や仕様に歯止めがかかるのでしょうか。遠く離れた私共日本人も、ラスベガス銃乱射事件を機に人の痛みと命のはかなさ人間の愚かさを考えねばならないと痛切に感じるところでございます。
そして、その迷いの最中(さなか)生きている私共に、今も無量光明は絶えず注がれ続けられていることをも、知らねばなりません。 

合掌
輝空談