法然上人の願い
九月に入り、朝晩がすっかり過ごしやすくなりました。
時節というものは本当に正直で、夏の厳しさを癒すかのように、秋の訪れが私ども人間を労わってくれます。
秋の気配を感じる、となると旅行会社の宣伝広告は加速度的に掲載され、「秋の満喫グルメプラン」だの「一度は行ってみたい紅葉の旅」などと季節を堪能する旅へと誘(いざな)う宣伝文句が並ぶのです。
そんな宣伝文句を眺めており、ふと思ったのですが、昨今では「モミジ狩り」という言葉をあまり使わなくなったような気が致します。
モミジの「鑑賞」と「狩り」の意味合いの連想性が薄く、意味合いの相互間が遠く感じるからとのことのようです。
そもそも、狩りという言葉は、一般的に獲物をしとめるという意味以外に、果物を採取する意味も含んでおり、「梨狩り」「いちご狩り」等は今でも頻繁に使われております。
その後、意味合いが広がり、植物を眺めるということにも使われるようになったとのことです。
その背景を探るべく、調べてまいりますと、モミジ狩りは今も昔も変わらず人々の心を奪うようで、千二百年前の万葉集の中にもモミジ狩りを読んだ句が登場するそうです。
しかし、当時の貴族の考えでは、長時間自分の足で歩く事が下品な行為とされ、野山を散策しようにも、その行為自体がはばかられる時代にあったようです。
それを下品な行為の枠組みから外されている「狩り」の名を借りて、山を歩き、紅葉を目出て回ったのでしょうか。
その行為からモミジ狩りの意味が定着していったことは想像がつきます。
方やもう一つ諸説がございまして、神楽や歌舞伎の演目に「モミジ狩り」という演目があるそうです。そのお話の内容は、現在の地で申します長野県にございます戸隠山(とかくしやま・・現在も紅葉で人気スポットのようです)に住んでいた紅葉姫(もみじひめ)という鬼女を成敗するという話があるそうで、そこからモミジ狩りへと発展したという説もあるようです。
さてどの語源が真実なのかは抜きと致しても、紅葉は一年に一度の自然がもたらす癒しのひと時であることに変わりはございません。
我が宗派の総本山光明寺も別名・モミジ寺と言われ、紅葉期には、それはそれは見事な景色となり、真っ赤に色づいた木々と、真っ赤な落ち葉でちりばめられた絨毯と、どこを見てもため息が出る真紅の世界です。機会ございます方は是非一度足をお運び下さい。必見間違いなしでございます。
その総本山光明寺はご存知の通り法然上人が最初に念仏の教えを説き、浄土門根元の地でございます。八百数十年の歳月、一日たりとて途絶えることのないお念仏の慈光は今も脈々と受け継がれ、今日までともしび続けております。
その浄土宗の根本にある精神は、法然上人の幼少期にあります。法然上人は、今の岡山県にあたる久米の地方豪族の子として生を宿しました。法然上人が九歳のころ夜襲にあい、瀕死の状態のお父様が法然上人に次の言葉を残したのです。
「私が死のうとも、決してあだ討ちをしてはならぬ。仇討ちをすれば、殺された敵の子がお前を恨み、お前を殺そうとするだろう。それでは、終わりのない恨みを生むだけだ。おまえは出家して人々を救う仏の道へ歩め。」と言われ、お亡くなりになったのです。
この言葉は、法然上人の人への冷静な寛容さに平等性と博愛性、それを宗教の中に見出し、人々を救いの道へ導く使命が生まれた道しるべだったのでしょう。そして時は流れ、法然上人は善導大師の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」に出会い、「南無阿弥陀仏」とお念仏をする「み教え」こそが救いの道だと悟り、浄土宗を開きました。
しかし、法然上人の浄土の心が人々に受け入れられると、それをよく思わない他の宗教教団と摩擦が生じ、流罪となりました。
当時の食糧事情や、交通手段を考えれば、流罪は死刑も同然で、生きて帰る望みはないに等しい状態でございました。そんな流罪の刑が下った法然上人は、弟子たちに次の言葉を残したのです。
私は流罪になったことを決して恨んではいません。
それどころか、長年、京の地で念仏を広めることが出来ましたが、遠路他国にも、前々から布教を望んでおりました。しかしなかなかご縁に恵まれなかったところ、この度そのご縁を授かり、これまでの願いを叶えることが出来たのです。
これは朝廷から頂戴した大変なご恩と感じております。そして、これでまた、念仏の教えが広まる喜びに満ち溢れています。と、申されたのでございます。
もう生きて帰れないかもしれない状況に、そのような言葉を述べられる法然上人の御心と、浄土の根源の尊さを重く感じるところでございます。
法然上人の浄土開宗から八百有余年が経った今日、文明を開化させ、人間は賢くなり、豊かになったはずです。
過去の過ちを学習し、平和の尊さも十二分に理解しているはずです。ところが現実は、新聞をはじめとする、あらゆる報道で、北朝鮮の核実験やミサイルの投下、それの対応の為にアメリカトランプ政権の動向は気が気ではなく、この戦後七十有余年の近代社会において、戦争という言葉が頻繁に飛び交うことはどういうことなのでしょうか。
法然上人の御父上の言葉や流罪になる法然上人の言葉をもって、精神の学習をするならば、どうすることが人々の為に平和解決できるか分かりきったことなのですが。
戦争だけは起こしてはいけません。
なんとか平和解決できるよう、各国の首脳陣に考えて頂きたいと願うばかりでございます。
合掌 輝空談