泉輪 平成30年12月



手遅れの先にあるもの


人生は、手遅れのくり返しです。

ある僧侶

あの時はわからなかったけど今だったらわかるということが、人生にはよくある。自分のしたことが、他人に思いも寄らぬ仕方で受けとめられ戸惑う。他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい、そのことも後になってようやっと知る。気づいた時はもう取り返しがつかない。経験というのはたいていそんなふうに起こる。母の年忌に、ある僧の言葉として住職から伺った。            (原文のまま)

誌公帽子イメージ朝日新聞記事コピー

今年も一年が終わろうとしております。と、同時に平成も終わろうとしております。皆様に於かれましてはどのような一年であり、どのような平成の時代だったでしょうか。
いつもこの時期の「いずみ」は回顧録のようになってしまいがちですが、師走という月がどうしても私をそうさせてしまうものですから、どうぞお付き合い下さればと存じます。

私なりに平成の三十年間を思い返してみますと、この三十年間は、人々の生活を大きく激変させたのではないでしょうか。その昔、コンピューターというものが昭和の終わりに我々一般にも取りざたされるようになりました。
ただし取り扱うことが出来る人は頭脳明晰で、俗に申すエリートの方が操作できるもので、我々素人には甚だ縁遠い存在でございました。

それが今では子供から大人までスマートフォンを使用し、ICカードをかざすだけでバスや電車にも乗れる時代になっております。生活のあちこちに意識せずともあらゆる機能が取り込まれているのです。

そのデジタル情報化による恩恵は、医療、経済、衣食住、想像以上に花開き、我々の生活の便利さに拍車をかけております。
特にこの頃驚いたことは、小さなAI機械に自分の言葉を残せば、希望する国の言語に訳され、相手に伝えてくれるというのです。
今もし、自宅玄関に外国の方が道を尋ねに来られたら、大概の方は、外国の方に対する適応能力に乏しく、パニックの上に、緊張し、訳の分からない言動をするのではないでしょうか。
それが、手元にその小さなAI機械があれば、相手の言葉を日本語で訳されたことが自分に放たれ、それに答える我々の言葉をその訪問者の国の言語に変えて伝えることが出来るのです。これには大変驚きました。その機械一つあれば、どこの国に行こうとも、言葉の壁はなく何の心配も不要となるのですから。

その機能に感心しつつ、と同時に疑問に思ったのが、日本語は大変繊細で、キメ細やかに相手を思いやる謙虚な心を持った配慮の民族言語にて、その要素は機械がどのように判断し、処理するものなのかと興味と共に、これからさらに躍進するであろう多様化する機能にやや不安にも感じる今日この頃でございます。

しかし、やはり人間たるもの、互いの目を見て率直に気持ちを伝える事に勝るものはなく、言葉によるコミュニケーションは人間成長のアイテムとして必要不可欠であることは間違いございません。

そして、率直であるからこそ、文頭の僧侶の記事文章のように、言葉の意味の取り違いや誤解はつきもので、そこに失敗というものが発生するのです。
人生に失敗はつきものと申しますが、取り返しのつかない愚行であればある程、後悔の念は治まらず、失敗が消えるわけではないのに自分を責め続けてみたり、悪化するばかりなのに全てに投げやりになってみたり、あえて他のことに目を向け、愚行を忘れようと努めてみたり、人間というものは失敗から立ち直るにはそれなりの時間を要して、そうして無駄なほどかみ砕いて、またそうでもしないと乗り越えてはいけないものなのです。

その愚行という失敗の結果からは、何が残るのでしょうか。無駄にした時間や、はたまたお金や体力の浪費だけでしょうか。失うばかりのことだけなのでしょうか。

いいえ違います。苦難を乗り越えた人にだけ得られる格別なものが残ります。

それは、苦悩した分だけ深く真摯に受け止める潔い度胸が培われます。また、さいなまれた苦悩の分だけ相手を思いやる気持ちが深まります。
それが、失敗という経験の裏にある、かけがえのない宝として自身に宿ってきます。

だから失敗や後悔の後には、人間味が円熟を増し、より一層味が深まるのです。

その結果、一人の人間として成長していくのです。

人生は失敗の繰り返しですが、それを消し去ることは出来ないと同時に、もう一度時間を巻き戻して、そこからやり直すことは決してできません。
しかし、心新たにしたその瞬間から出直すことはいつでもできます。

手遅れの後悔の負の力を糧に、その経験を財産に変えることが出来る人間の持ち得る能力に感慨深く思い巡らせております。

この記事掲載の僧侶の飾ることのない言葉だからこそ、素直にうなずき、己の足元を見ながら、この平成最後の師走を終えようと思います。

合掌 輝空談