泉輪 平成31年春彼岸にむけて



醍醐味探し


今年は暖冬と言われてきましたが、それでも一月二月の底冷えは、冬を思い知らされ、首をすくめて過ごしておりました。それも三月に入りますと、やはり春の訪れを感じ、衣服が一枚づつ少なくなっていく今日この頃です。
 その三月ですが、相撲界では春場所が開催され、相撲ファンの方たちは、夕暮れを心待ちにし、家路を急がれておられるのではないでしょうか。
こう見えて愚僧私も相撲ファンでございます。正確には相撲ファンであったというのが正しい表現かもしれません。

と申しますのが、福岡県民なら当たり前、福岡県民の誇り、地元福岡の人気力士「魁皇関」の大ファンだったのです。魁皇関が現役の頃は、毎日テレビにくぎ付けになり、勝った負けたの大騒ぎで、勝った取り組みの日の晩酌のおいしいことと言ったら何とも言えない至福の味でございました。
負けろうものなら、相手の力士にむかっ腹が立ち、自分が取り組むわけでもないのに、今度は見とけよ、と鼻息を荒くするのです。そんな我々を楽しませてくれた魁皇関も現役を引退し、やや傷心気味の相撲ファンになり下げっていたのでございます。

 ところが、その相撲観覧意欲に火をつけてくれたのが、「稀勢の里関」の横綱昇進です。
過去の日本人横綱は、「若乃花関」が横綱に昇進した一九九八年以来、何と十九年ぶりに日本人横綱が誕生したのです。 今は、世の中のグローバル化が進み、どの世界にも外国人の活躍の場があり、相撲もその流れを止めることは、出来ませんでした。

日本人より体の大きな体格で、その剛腕な力士から勝負に挑まれれば、技の日本人相撲と言えども、勝ち星を重ねることは容易なことではなかったのです。
そこに栄光の架橋となって彗星のごとく誕生した日本人横綱に角界はわきに沸いたのです。

しかし、その稀勢の里関もケガに苦しまされ、惜しまれつつも引退してしまいました。またもや、ガッカリ相撲ファンの私の心境でございました。相撲は日本の国技です。
国の技と文字で書くにもかかわらず、その頂点に日本人がいないというのは何ともさみしい限りでございます。

その国技といわれる相撲の歴史は想像以上に長く、千五百年も続いているそうです。
起源をさかのぼるには、「古事記」「日本書紀」までもを紐解くところから始まるようで、そこには、力比べの神々の神話勝負伝説が書かれているそうです。
そして、その勝負に起因して、相撲の勝ち負けが、その年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として定着し、毎年行われるようになったとか。
その後、鎌倉時代以降は、武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われたことから、戦国武将の家臣として召し抱えるための入団テストのような意味合いをも持つようになったのです。

過去の流れは、相撲は相撲を取り組む力士だけのものでしたが、やがて、それを観覧する大衆娯楽の要素が含まれて来るようになりました。その文化が出来始めたのは江戸時代に入ってからです。
その時代に入ると浪人や力自慢の者の中から、相撲を職業とする人たちが現れ、全国で勧進相撲が行われるようになり、江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになりました。
 その相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至ったというわけでございます。
当時の文献によりますと、相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになり、勝ち負けを占う博打や、縁日のように出店が出るなど、大衆生活の娯楽文化に大変な影響を及ぼしたのでございます。

こうして、古事記の神話に描かれた神々の相撲から始まり、様々な時代背景を経て、意味合いを様変わりさせながら、それでも江戸時代からは変わらぬ姿を文化として残しているのです。
土俵入り、番付表、化粧廻し、髷(まげ)、着物、相撲の取組など、江戸時代と変わらぬ姿を、今も見ることができる大相撲です。 その大相撲は、長い歴史の中で次第にルール化され、洗練され、様式化されてスポーツとしての形態を整え、我が国固有の伝統文化となったのです。

相撲の時代背景は、今ご説明したとおりなのでございますが、では、いつ頃から大衆娯楽から相撲を「国技」と言うようになったのでしょうか。そもそも、日本において「国技」という言葉が最初に登場したのは、「相撲」ではなく、意外にも「囲碁」の世界でのこと、とのことです。
江戸時代の化政(かせい)期(1804〜30)に盛んになった「囲碁」を武士階級が「国技」と称したことがあるそうです。その後、相撲に関する言葉になったのが、明治四十二年六月、東京・本所両国の回向院(えこういん)境内に相撲の常設館が完成した時にはじまります。当時の超人気力士であった常陸山(ひたちやま)・梅ヶ谷(うめがたに)の両横綱が黄金時代を築き、その時代の波が後押しとなって、江戸時代からの小屋から、雨天でも興行できる常設館が建築されたました。 この開館式の式辞文中に「相撲は日本の国技」と銘打ってあり、初めて相撲=(イコール)国技と認識されるようになったのです。
やがて常設館は国技の相撲をするところという意味で、「国技館」と命名されるようになったとの経緯です。
以後、相撲は国技という名称で呼ばれるようになり、「国技」と言えば「相撲」をさすようになりました。 その国技である相撲にはスポーツという競技性以外にも、日本人が大切にしてきた日本人特有の魅力を秘めている真髄があると思います。

第一は、鍛えこんだ力士が対決し、力の限りを尽くして戦う姿は、近頃は希少価値になってきた、力強い人間味ある男らしさがそこにはあります。しかも、勝ち負けがはっきりしていて、短時間に結果が分かり、他の競技に見られる曖昧さが全くないのです。その上、勝敗は一瞬の集中力の差で決まるのですから、大一番ともなれば、息詰まる立ち合いに、見る者全てがかたずを呑み、力士と観衆が共に一体化し、いやが上にも場内の緊張感が高まっていくという、まさに相撲の醍醐味(だいごみ)を見せてくれるのです。
加えて、体の大きさや重さに関係なく、無差別級で闘っているのも魅力です。柔道やボクシングのように体重別の枠がないのです。それ故、幕内の平均体重が159kgという中で、小兵力士が大型力士を倒すには、よほどの技とスピードが必要であり、「小よく大を制す」妙味を示していると言えるのではないでしょうか。

 第二は、数年に見受けられた、土俵上でのガッツポーズを見なくなったことは、誰もが頷けるのではないでしょうか。勝者もはしゃぐことなく、敗者も悪びれず、淡々と礼を交わす姿には、本物の武道らしい「礼」の精神が垣間見られます。観衆はその節度ある行動に感動を覚え、同時に力士の心中をも察しながら、拍手を惜しまないのです。
敗者への配慮に欠けた行為は、人目を引くための自己掲示にすぎず、決して武道とは言えないと、評論家の辛口のコメントに示されるよう、国技の名には値しないと思われます。

かつてはそういう見苦しい光景をしばしば目にしたことがございましたが、今はほとんど消えているのも好ましい限りであります。
ただただ、全力を出し切ったすがすがしさがだけが残ったのです。

こうしてお分かりのとおり、相撲には人間の尊厳が秘められており、その精神は、未来を担う子供たちへの模範と言っても過言ではないのでしょうか。 相撲は、「礼に始まり、礼に終わる」のとおり、武道の根本精神であるのです。
 相撲道が長い伝統の中で培ってきた「礼の型」は、わが国が世界に誇り得る貴重な文化遺産であり、後世にそのまま継承していく必要があるではないでしょうか。
個性の名のもとに「型」を軽視しがちな現代であるだけに、なおさら価値が大きいのだと感じております。
「美しい礼」を求めて、力士にはさらに一層の精進をするのでしょう。
そのどの姿にも敬意が見て取れないようでは、本物の「礼」とは言えないであろうかと思います。

その礼をするもう一つの場が、仏前です。あなたもこのうららかな春に誘われて、お彼岸参りをし、日本人のその誇りである礼を添えてお参りをしてはいかがでしょうか。
 もしかしたら、春の陽気に誘われているのではなく、ご先祖様の声なき声に誘われているのかもしれません。
そしてあなたご自身も、そのご先祖様の声なき声を気づかぬうちに、欲しているのかもしれません。
それが春彼岸の醍醐味なのではないでしょうか

合掌

 輝空談
 追伸 ちょっと、相撲を厚く語り過ぎていることに、反省をし、お詫び申し上げます。(苦笑)