平和の君主
お十夜が終わり、残務整理や他寺のお十夜加勢を勤めさせて頂き、今年も紅葉を楽しむ機会を得ることなく、暮を迎えてしまいました。あっという間の師走でございます。
今年は台風による甚大な被害が発生し、未だ避難生活を強いられている方や、今後の生活再建の計画がたたない方もおられることに寒さ厳しくなる時候故、心痛めるところでございます。
その半面、新天皇ご即位に伴う令和の式典は、華々しく神々しく、新時代を迎える慶賀は多くの国民の喜びであり、被災者の方に於かれましても励みとなられたのではないでしょうか。 こうしてまた一年を終えようとしているのだと感慨にふけっておりますところに、突然の訃報が飛び込んでまいりました。
ペシャワール会現地代表 中村哲医師が何者かに襲撃されお亡くなりになられたのです。何ら親交があるわけではない私ですら、かなり動揺を致しました。皆様もそうであったのではないでしょうか。
今更かとも思いますがこの場をお借りし、ペシャワール会と中村哲氏の経歴と活動をネット新聞からの情報を基に記述させて頂きます。
ペシャワール会現地代表:PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス)総院長である中村哲氏は、一九四六年福岡県生まれの九州大学医学部卒業です。
国内の病院勤務を経て、パキスタン北西部ペシャワールのミッション病院ハンセン病棟に赴任し、パキスタン人やアフガン難民のハンセン病治療に尽力を注ぎました。その傍ら難民キャンプに赴き、アフガン難民の一般診療にも携わり、その後活動範囲をアフガニスタン国内へと拡げ、山岳部医療過疎地でハンセン病や結核など貧困層に多い疾患の診療を開始するようになったのです。
その母体組織であるペシャワール会は一九八三年九月、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体です。
この団体は医療団体ですが、病気の背景には慢性の食糧不足と栄養失調があることから、砂漠化した農地の回復が急務だと判断し、今なお進行する大干ばつの中、灌漑水利事業におもきを置いて、普及活動に職員一同尽力されていたのです。
そこに至るまでに、中村氏のテレビ出演で、目の前で命を落とした背景は、八十パーセントが食料と水がないので亡くなったと話されておられました。逆を言えば、食料と水さえあれば、亡くならずに済んだ命ばかりだったということです。
その思いは医療活動より灌漑工事に趣をおいていったことは自然の成り行きとしか言いようがありません。現に「生きておれ。病は後で治す」と中村さんは口ずさみながら井戸を掘ったと言われております。また、生前の彼の有名な言葉に「百の診療所より一本の用水路を」と言われ、現地の人々と共に取り組んだのが、灌漑事業だったのです。
中村氏と現地の人々がどれくらいの時間を要して信頼関係を築いたのか知る由もありませんが、一筋縄で今の構築した関係にまで至ったのではないことくらいは予想できます。
ひたすら時間をかけ、ひたすら同じ姿勢で現地の人と接したのでしょう。今、バタバタと死にゆく人の傍らで、いつ完成するともわからない水路の工事は無駄に思う人も多かったでしょう。本当にこの砂漠地帯に緑咲き誇る農地が出来るとは到底思えなかったでしょう。その死にゆく人の傍らにいる人に将来を語っても心響く物はなかったでしょう。見えない先の未来よりも、今死にゆこうとしているこの命をこの世にとどめて欲しいと、目の前だけしか見えないはずです。
その気持ちを理解しつつ、将来を語りながら灌漑工事をひたすらに続けたのです。 そして、彼らの団体は信じて、信じ続けて井戸を掘りました。その数は何と千六百ヵ所以上です。灌漑水路を十三本掘削し、地下水路に至っては三十八ヵ所再生したと言われております。
その結果、二十五キロメートルを超える用水路となり、そこから注がれる水は一万六千五百ヘクタールの緑の大地を生みました。これによって六十五万人もの難民たちが用水路の流域に帰農し、定住し始めたのです。
内戦により国土は跡形もなく破壊され、行き場を失った人々は難民となり、貧困故に命を落とすか、人身売買されるか、はたまた武装組織に入るかしか選択できなかったアフガニスタンの人々が、緑まばゆい農地を耕し、作物を育て生きるすべを得たのです。
その根底にたった一人の日本人が居たのです。その日本人中村哲氏の魂が人々の魂を震えさせ、仲間を呼び、組織が強固となり、よりアフガニスタンの復興へと力が倍増されるであろうと勝手に思い、疑ってはいませんでした。
ここまで信頼を得た人には反旗を翻す人はいないと思っていました。例えそれが内戦地帯であっても、例え危険が押し寄せていようとも、中村氏だけは守られるはずだし、守られるべきだと勝手に思っていました。そう思っていいほどの功績を残して、今なおやり続けているのですから。アフガニスタンの人を助けているその人に、まさかアフガニスタンの地で銃を向けられる道理はないと思っていました。
あっけない終わりでした。
遠く離れた外国の情報が速報という形でテレビに流れ、その流れる文字だけを目で追いながら、心が追い付かず、ただあっけないなと思いました。 でも、彼は誰も恨んでいないことでしょう。誰の報復も望んでいないことでしょう。それが中村哲という人なのでしょう。その体こそ無くなってしまいましたが、彼の尊い思いと平和への願いは受け継ぐ仲間によって益々アフガニスタンに注がれることでしょう。
いま改めて、中村氏に敬意を表すると共に、中村氏の足元にも及ばずとも、自分にできること、生かされている役目、掲げるべき目標は何かと、自問自答の思いをはせている今日この頃です。
私の生きる意味を思い 十念合掌 輝空談