泉輪 令和元年8月



生きる意味と死ぬ権利


ある日の晩の我が家の様子です。

夜になり、そろそろ寝ろうかと、布団を敷いていると、家内がいつもの癖でテレビを付けました。テレビはNHKになっていて、番組を選ぶというより、流れてきたから目にしたというたまたま間のまま、そのNHK放送を見ておりました。
しかし、その番組のタイトルに「うぅっ」と言葉にならない声を発してしまいました。そのタイトルはNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ 」でした。

内容は、ネットNHK原文をそのままです。

安楽死が容認され海外からも希望者を受け入れている団体があるスイスで、一人の日本人女性が安楽死を行った。
3年前に、体の機能が失われる神経難病と診断されたAさん。歩行や会話が困難となり、医師からは「やがて胃瘻と人工呼吸器が必要になる」と宣告される。
その後、「人生の終わりは、意思を伝えられるうちに、自らの意思で決めたい」と、スイスの安楽死団体に登録した。 安楽死に至るまでの日々、葛藤し続けたのが家族だ。自殺未遂を繰り返す本人から、「安楽死が唯一の希望の光」だと聞かされた家族は、「このままでは最も不幸な最期になる」と考え、自問自答しながら選択に寄り添わざるを得なくなった。
そして、生と死を巡る対話を続け、スイスでの最期の瞬間に立ち会った。
延命治療の技術が進歩し、納得のいく最期をどう迎えるかが本人と家族に突きつけられる時代。海外での日本人の安楽死は何を問いかけるのかを見つめる。

そもそも安楽死とは何か調べますと、大きく分けて二つの意味合いを持ち、一つは、苦痛を除く手段がない患者の命を薬剤投与などで意図的・積極的に縮める行為の「積極的安楽死」、もう一方は、苦痛を長引かせないよう医療行為を控えるなど延命治療を中止したりして死期を早める行為で消極的安楽死」とがあり、「消極的安楽死」は「尊厳死」とも言われている様です。
家内の父は急性白血病と宣告を受け治療による回復の見込みがないと判断したのちに、家族で話し合い緩和病棟へ移り、痛みや苦しみの無い一時を過ごし、穏やかに最期を迎えました。
その父のケースも消極的安楽死と言えるでしょう。

今、世の中では、終活(しゅうかつ)というのが静かなブームを呼び、自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括プロデュースのシナリオを自分で用意しているそうです。
主な事柄として、生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者に迷惑がかからぬよう生前整理、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことなどが挙げられるようです。
終活と申しても、悲壮感は全くなく、一番きれいな遺影の写真を自分で用意したいとプロのメイクで写真を撮ることや、棺桶に入る体験など、笑いに満ちた行為が多いようです。

その中の事柄の一つに、「万が一の時は延命治療をしなくていい」という事柄など最期直前の医療方法を投げかけておくこともあるようです。
その終活という言葉には耳慣れてきた昨今ですが、まさかNHKが安楽死のテーマを掲げ、命が尽きるその瞬間までをも密着し、一人の「命」というものに対しての、生々しいほどの現場を映し出したことに心底驚きを覚えました。

冒頭で綴りましたとおり、その彼女は難病に侵され回復の見込みは望めません。
そして結果「積極的安楽死」を希望したのです。日本では「積極的安楽死」は犯罪であり法律で認められておりません。
よって彼女は法律で認められているスイスでその行為を受けたのです。
そのスイスの団体は、ライフサークルといい、そこに登録したからといって、すぐに「積極的安楽死」を受けられるわけではなく、様々な審査とその団体の基準である、

  1. 耐えがたい苦痛がある。
  2. 回復の見込みがない。
  3. 代替治療がない。
  4. 本人の明確な意思がある。
という4つの項目をクリアーしないといけません。

そしてその彼女はすべての条件を満たし、希望である「積極的安楽死」を受けることになったのです。施設についた翌日にはその決行日です。
朝、書類にサインした後、医師は表情一つ変えずに「ベッドに移りましょう」と促すのです。
ライフサークルでは、点滴の中に致死薬を入れ、そのストッパーを患者自らがはずすという方法で、「積極的安楽死」が行なわれるのです。
そして、Aさんは一切の迷いもなくストッパーをこじ開け、最期を迎えたのです。
 映像では同席した姉妹が、「あ〜」と小さな声を出しました。
一緒にテレビを見ていた家内も同じく声を出していました。その後Aさんは二人の姉に「本当にありがとう。こんな私の世話をしてくれて。本当にありがとう」と言うと、微笑んだまま亡くなりました。点滴が流れ始めてたった数分のことでした。

その一連の様子が何も修正することなく映し出され、現実に起こったことのリアルさの衝撃に加え、自分が瀧のように涙で顔を濡らしていることに気づかず見入っていたことを理解するのに少し時間を要しました。
 その後考えることは、「命」とは何か、「死」とは何か、「仏様の導き」とは何か、「寿命」とは何か、ありとあらゆることを考えさせられました。
  進む医療技術と尊厳ある死のはざまに何を選択することが正しいのか、もしくは、選択することそのものが過ちなのか、この現代の中での、解決付かない問題をわれわれ人間に投げかけられたようです。
 この回答を唯一知っているのは、亡くなってあの世に行った仏様なのでしょうか。
亡くなる経験をしているその魂なら、正しい道を知っているのでしょうか。

今度そのご先祖様がお盆に帰ってこられます。各家々お仏壇やお墓の前で、ご先祖様に最期の在り方をお尋ねになるのもよいかも知れません。
 生きていて分かった事、亡くなって分かったことを仏様やご先祖様に多いにご指導して頂きたいものです。 それもまた、お盆の故人様との会話の大切さなのでしょう。 

合掌
輝空談