泉輪 令和2年12月



半分の力


暑かった夏が終わり、ようやく秋の季節となりました。
私にとっての今年の秋は、三男の高校周辺、宇佐市の黄金色の田園に教えられました。
今の稲作は、品種や収穫時期に差別を設け、一昔前のように、村内で一斉に稲刈りという光景はほとんど無くなりましたが、宇佐市のその風景は、あたり一面が黄金一色で、稲穂のさざ波が私に季節の移り変わりを、まばゆいばかりに目で感じさせてくれました。
まさに目を奪われる光景というには、申し分のない景色でした。

この目を奪われるという言葉ですが、その意味は、直訳すると、目を盗られて何も見えない意であり、転じて、あまりの美しさに見とれて夢中になることを示します。
他の動物にはできない、感情を持つ人間の、最も人間たる故の、心の行いの一つと言えるでしょう。

目とは、物を見るための情報収集の道具であると同時に、時に日本人はまた、目を用いて感情表現、内面表現に用いることで、言葉に深みをもたらせてくれています。
「目でものをいう」「色目を使う」など、感情を目にのせることで、微細な表現力が増すというものです。

では、仏様の目はどのようになっているでしょうか。

前回の「いずみ・秋彼岸」でお話し致しました不動明王や、閻魔様、風神雷神像などは目を大きく見開き、怖い形相で物申しますが、泉福寺ご本尊の阿弥陀様や納骨堂ご本尊のお釈迦様は、俗にいう半開きの目をしております。

この半開きの目を仏教では「半眼・はんがん」と申します。
その仏様の表情は、慈悲の優しさや深さを以って人々を救おうとしているため、穏やかな表情をしているのです。

しかし、なぜ半眼の眼差しをされているのでしょうか。

半眼には多くの意味があり、一つに、半分は外の世界を見て、残りの半分で自分の心を見つめるという意味があるとされています。
さらに、「肉眼」で見る写真的な情報だけではなく、物事の真相や内に秘めた正しい本質を見極める鋭い心の動きを意味する「心眼」の両方を養うという意味もあると説かれています。

また、少し私個人の解釈となるのですが、本堂のお勤めの際、阿弥陀様の目の先は、「鏡の間」を見下ろしているように感じます。
鏡の間とは、本堂の一段高くなっている内陣と言われる部分の、その中央が板張りになっているのはご存知でしょうか。
その板張りのところを「鏡の間」と申します。その鏡の間は、先人のお智恵により、板を用いて本堂の中に極楽浄土を映し出すための鏡の役目を担っているのです。

また、ご法事や法要などでご参詣頂きました皆様の仏心を、鏡の間を通してお浄土のご先祖様や仏様にお伝えする伝導手段になっているとも思っております。
今どきに申せば、あの世とこの世の通信手段が鏡の間と申せば、例えやすいでしょうか。
だから何人(なんぴと)たりとて、その鏡の間を安易に踏むことは、はばかられます。
私や子供たちを含む僧侶修行の者に限られます。
家内でさえ、結婚の際に仏前でお許しの儀式を受けております。
そうでなければ立ち入ることのできない神聖な場が本堂の中にはあり、そこを通してお浄土と繋がっているとお感じ頂きながら本堂のお参りをされると、また新たな仏心が育まれるかと存じます。

因みに、お十夜法要などの大法要では、加勢人のお力が必要となり、毎朝毎夕のお勤めで、そのご加勢下さる方に徳が積まれるようにお願い申し上げ、ご加勢の方が鏡の間を踏むことのお許しを頂戴致しております。

その鏡の間を見下ろす阿弥陀様の半眼の目をとおし、先人の遺徳の感謝と、この世の安穏を願い、お見守り頂いていると日々思うのであります。

そしてこの世の凡人であるわれわれ人間も、半眼の目を養い、心を見つめる必要を感じるのです。

過日のことです。「テニス・全米オープン」 女子シングルス決勝が行われ、世界ランク九位の大坂なおみ(22)選手は、逆転し、二大会ぶりの優勝で、四大大会、二勝目を飾りました。今大会で入場時に身に着ける黒のマスクに、過去に黒人差別により亡くなった人々の名前を記し、人種差別への抗議を続けてきた大坂選手です。

用意したマスクは計七枚。

有言実行の上、七枚目となるマスクを着用しての決勝進出で、事前に用意していたすべての名前入りマスクを披露したのです。
そして、優勝インタビューで、「七つの試合、七つのマスク、七つの名前。どんなメッセージを伝えたかったのですか?」と記者に問われると、彼女はこう返しました。

「逆にあなたは、これらからどんなメッセージを受け取りましたか?何かを感じ、考えるきっかけになることが最も大切なの」と切り返しました。

マスク着用という行為だけで、長い黒人差別の歴史を訴える真髄と、阿弥陀様の半眼の真髄とに、深い共通の意味を感じた今日この頃であります。       

              

合掌 輝空談