泉輪 令和3年春彼岸にむけて



念仏の功績 空也上人


今年の冬は、年が明けてから急激に強い寒波が襲来し、地域によっては命の危険を伴う豪雪が降り積もりました。その寒さも今では月日と共に穏やかになり、春の到来を花々に教えられる時分となりました。そして春の喜びの一方で、今年もまだコロナに翻弄される日々が続くことは、多くの皆様が覚悟の上の今日この頃ではないでしょうか。

そんな折、東京の国立博物館で「空也上人と六波羅蜜寺」という特別展が開催されております。
この空也上人という僧侶のことはあまり耳にされたことはないかと存じますが、浄土宗においては、原点の僧と申しても過言ではない人物なのでございます。

この空也上人が活動されていた時期は、浄土宗が確立する鎌倉時代よりはるか前で、平安時代後期にまでさかのぼります。空也上人は武家から一般大衆に至るまで幅広い層に受け入れられ、特に出家僧に向けてではなく、世俗の者に念仏信仰を広めたことに深い意義がございます。
また念仏信仰と申しましても、特別な仏像をご本尊として拝むこともせず、長いお経を称えるわけでもなく、はたまた服装すら、僧侶からかけ離れた浮浪者のような恰好だったのです。

そしてただひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称えて歩き回る、そのことだけをし続けた僧なのでございます。その行為は、称名念仏(口称念仏)を実践した日本において記録上初めてとされ、日本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評されております。
空也流の称名念仏は時が流れ、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したといって間違いございません。これだけ後世に、特に浄土系の宗派にも多くの影響を与えたのですが、空也上人自身はある一定の宗派とだけ強い関りを持つことはせず、複数の宗派と関わりを持ち、超宗派的立場をとっておりました。
没後も空也の称名念仏の根底意義は受け継がれましたが、法然上人のように空也上人を開祖とする宗派は組織されませんでした。

ただし、唯一、空也が創建した西光寺(後の六波羅蜜寺となる)には「空也踊躍念仏」が受け継がれており、国の重要無形文化財に指定されております。
その偉業を称え六波羅蜜寺には木造空也上人立像がお祀りされております。他にも、荘厳寺(近江八幡市)、月輪寺(京都市右京区)、浄土寺(松山市)にも立像があり、いずれも鎌倉時代の作とされております。

空也踊躍念仏
空也踊躍念仏
空也踊躍念仏

その、彫像の造形は非常に特徴的であります。首から鉦(かね)を下げ、鉦(かね)を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで歩く姿を表しております。
それに加え何より特徴的なのが、六体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられているのです。この六体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の六字を象徴しており、念仏を称える様を視覚的に表現しているのです。
いや、その空也上人の信念の深さに人々は本当に南無阿弥陀仏と申す声に阿弥陀様が見えたかのように思えたのでしょう。
そして空也上人の弟子は、中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の浄土系仏教に多大な影響を与えたのです。

仏教的には、お念仏を称える浄土系仏教に影響を与えたことは再三述べてまいりましたが、別の分野にも影響を残しました。念仏を口ずさみ練り歩く行為は、盆踊りの原点ともいわれております。

そもそも盆踊りとは、お盆の時期にお迎えしたご先祖様の霊をもてなし、一緒に過ごして送り出す行事です。夏のイベントの一つではありますが、真意はただの踊りではなく神聖な行事といえるものであり、仏教の「念仏踊り」からの流れだとされています。
この念仏踊りとは、自分自身で念仏を称えながら踊るもので、後に踊る人と念仏を唱える人が分かれた「踊り念仏」に発展しました。
これらの民俗芸能がお盆と結びつき、現代の盆踊りになっております。室町時代から始まったものであり、およそ五〇〇年の歴史を持つ厳かな行事の一つといえます。

コロナの影響により、まだ大手を振って東京に行くことははばかられる風潮ですが、もしこの先、空也上人像にお目にかかる機会がございましたら、この小さな情報を思い出して下されば嬉しい限りでございます。そして、我々が当たり前のように、お仏壇やお寺で口にする「南無阿弥陀仏」のこの六文字に、はるかかなた平安時代から大切に受け継がれ、そして今我々の心にあることをお感じ下されば幸いです。

 

合掌
輝空談