お盆になると思い出す
火出るような極暑となりました。皆様には、お体お変わりございませんでしょうか。年々上昇する気温に、いつ自分が倒れてしまうのかと、自然の猛威に震えながら過ごす毎日でございます。それに加えてのコロナウイルスと退治せねばならず、生きることの苦を重ねるこの頃でございます。
さて、毎年お盆になると、思い巡らす記憶と申しますか、なんとも切ない出来事を考えます。
もうずいぶん前のことになりますが、福津市の他宗派のご住職からお電話を頂戴致しました。
私共住職は、宗像仏教会(福津市・宗像市)という団体に加入しており、年に数回の会合やイベントを開催し、宗派を超えて、地域への貢献に加え、今の情勢での意見交換をする場を設けております。
しかし、実情は、年に数回開催の場での、その場限りの交流が主で、中々他宗派のお寺様とはお会いすることや、お話しすることは滅多にございません。泉福寺も同様で、同じ村内の上八・承福寺様とは地域行事の合同慰霊祭でお会いするものの、それ以外の他宗派のお寺様とは、ほぼお会いすることはないのでございます。
そんな折、ある福津のお寺様からのお電話に何事かと思い、応対致しましたところ、そのお寺に縁者を頼り、遠方岐阜よりご年配の女性がお参りに来られているとのことでありました。お話を要約致しますと、その方は、終戦の混乱期に満州より引き上げ戦で、幼い娘さんを連れて日本にたどり着いたそうです。船の中は足を延ばす事もできない程、満員の状態で、船底は酸欠になりそうな、劣悪な環境 だった、と話されていたそうです。そして間もなく日本に到着すると思われたときに、力尽きた娘様は、お母様の腕の中で亡くなってしまったそうなのです。そういった状況は船内のあちこちで多発しており、人に亡くなっていると知られてしまうと、少しでも場所の確保をするために、周りの人が無情にも、亡骸を海に放り込むという、地獄のような現状だったとのことでした。そのお母様は、娘様を海に捨てられないように、娘様が寝ているだけかのように話しかけ、亡くなっていることを悟られないようにし、日本へたどり着いたと、涙を流されて回顧されていたそうです。
我が子を亡くし、その悲しみをこらえ、話しかけ続ける演技をせねばならない母の思いはいかばかりだったかと胸を痛めるばかりでございます。
そして、その親子を乗せた船はある海辺に到着したそうです。そこでは、戦死者か、戦争被害者か、はたまた、戦争による飢餓や病気でお亡くなりになったのか、その浜辺近くで、薪をくべながら多くのご遺体を火葬していたそうです。その火の中でお亡くなりになった娘様も、同じく火葬されたとのことでした。その娘様のご遺骨をお持ち帰りになられたのか、どうされたのかは分かりませんでしたが、その火葬している火の傍で、一人の僧侶が読経をしていたそうです。
そのお母様は、すがるようにその僧侶に懇願し、「このままではこの子は成仏できるかどうかわかりません。どうぞ、この子に戒名を付けてやってください。」、と何度もお願いをされたそうです。戦後の混乱の中、食べるものも着るものもない、ましてや紙や筆もないその状態で、何をどうしたのかは分かりませんが、その僧侶に戒名を授けてもらい、そのお戒名で今日まで娘様をご供養されてきたとのことでした。ではなぜ、福津のお寺様は泉福寺にお電話してきたのでしょうか。実はそのお聞かせ下さったお戒名が「●空▲★童女」だったのです。空、この文字を「くう」と読み、その空号(くうごう)は、我が宗派、西山浄土宗でお祀りするという証の文字なのです。
そして、童女という名前は僧侶が授けた証であり、その僧侶は西山浄土宗の僧侶に間違いがないからです。
福津に参詣に来られたその女性は、宗派のことは詳しくわからないので、ただ、福岡の海沿いにたどり着き、海のすぐ傍で火葬したということしか覚えておられず、その記憶だけを頼りに福津のお寺に来たと話されていましたが、実際の、当時火葬に関わったお寺は西山浄土宗のお寺の僧侶だったのです。
ただし、お調べ致しましたが、そのお戒名は泉福寺の過去帳には記載がありませんでした。時期的には、泉福寺の先々代の住職になろうかと思いますが、泉福寺の当時の過去帳も、時系列が行ったり来たりするほど整然とはしておらず、戦争時代の混濁を表しておりますので、通りすがりの、しかも、混乱時の戒名記載はなされていないのかもしれませんし、福岡県内で海岸添いの西山浄土宗のお寺は門司から糸島まで数ヶ寺ございますので、泉福寺とは限りませんでした。
ただ、その女性は、自分が亡くなる前に福岡の地に自ら出向き、海に向かって最後の祈りを奉げたいとの一心で、お見えになられているということなので、戒名を授けたお寺がわからずとも、本望だとお帰りになられたとのことでした。
今、当たり前のようにご親族のご葬儀に際し、お戒名は授けられております。そして、その懇情の別れはどんな時代になろうとも、この上なく悲しいものですが、戦乱期の、生きるも地獄、死ぬのも地獄の、生き地獄の中、すがる思いでお戒名を手にしたその女性は、そのお戒名があったからこそ、すさまじい苦難の中を生き続けられたと申す言葉に、本来のお戒名の真髄を思い知らされた心中でございます。心の奥底にしまっている傷の深さは、故人様の御霊へ敬意をもってご供養し、ご自身のお慰めとしていたのでしょう。
皆様におかれましても、毎年恒例ではございますが、ご先祖様がお盆にお戻りになられます。お亡くなりになられた状況、年齢は様々でしょうが、その方の一生に思いをはせ、お戒名の文字から故人様をお忍びし、お盆のご供養として下さればと、切に願います。
合掌
輝空談