歴史の祈り
実りの秋となりました。秋彼岸の「いずみ」の作成の際は、夏の陰りと秋の訪れの狭間でしたが、今は存分に秋を楽しむ絶好の時候となりました。
テレビに移される映像をみておりますと、狭い国土の日本でありながらも、北から徐々に訪れる紅葉の何ともいえぬ絶景に心奪われるばかりでございます。
そしてその映像を目にするたびに、あそこに行ってみたい、ここに行ってみたい、と達成できたことのない妄想会話をするのが我が家の秋恒例、お決まり行事のようになっております。
皆様も秋のお決まりごとは何かございますか。
収穫された果物や野菜の長期保存の漬け込み、衣替え等、秋だからこそ出来ることを再確認してみるのもいいかもしれません。
と申しますのも、人間は同じことを繰り返す習性があるようで、一年に一度の行い、季節ごとの行い、毎日の行いとパターン化された行動を繰り返すとされております。
それ故なかなか新しいことに挑戦することや、新しいことを発見することに疎くなるのが習性のようです。我が家でも朝は特にマンネリ化の毎日でございます。
数十年、欠かさず朝食時にはNHKの朝ドラをBSで視聴するのが日課です。
そのドラマが面白い時も、自分的にあまり面白くなくても、必ず見ることが疑うことのない日課になっております。
そして決まって最終回を迎えると、きれいさっぱり内容を忘れてしまうのが常です。
ところが先日終わった「ちむどんどん」は違いました。
そのドラマは行ったことのない沖縄が舞台のドラマとなっておりましたので、非常に興味深げに必ず見ておりました。
そしてそのドラマの中、歌とともに繰り広げられる挿入部分のところで、器の中で紙を燃やしながら祈る姿がございました。
その何気ない様子の内容に何とも言えぬ神聖さと新鮮さを覚えたのです。
元々沖縄という県は、日本の一県というより、やはり琉球王国といった独自の国文化が今現在も色濃く残っているようです。
冒頭で申しました通り、私は沖縄に行ったことがございませんので、書籍とネットの情報をかき集めて調べた次第ではございますが、琉球神道(りゅうきゅうしんとう)という自然崇拝の宗教が信仰されていたとのことです。
しかしその宗教も地域によって違いがあり、さまざまな文化を形成してきたのは、島として離れて混在しているからなのでしょうか。
そこで話を戻しますが、NHK朝ドラの挿入部分の器に模様が描かれた紙を燃やす部分の紙は「ウチカビ」と呼ばれるものと知りました。
藁を原料とした黄色い紙に小判のような丸い刻印が打たれているとのことです。「ウチカビ」は黄色の色をしていますが、「ウチカビ」に似たもので、「シルカビ」というものもあるようです。「シルカビ」は白い紙製とのことです。
シルカビが神様へのお金で、ウチカビはご先祖様へのお金と分かりました。あの世で故人が、お金がなくて困ることがないよう、シルカビもウチカビも、神様やご先祖様の前で燃やして、煙に願いを込めてあの世へ思いを送り届けるようです。
また、拝む行為を総称して、沖縄では御願(ウグヮン)と呼ばれています。
御願とは、先祖や神様に祈りを捧げる行事で、お墓の前でも、家々に居るとされる様々な神々へでも、どの状況でも祈ることの全てをそう呼ぶようです。
更に、調べを進めてまいりますと、お線香がこれまた独特のものを発見致しました。
一般的に使われているお線香は、宗派により、太さ長さは様々なものの一本のお線香を使います。仮に二本を揃えて供えるにしても、一本線香の使用本数が二本というだけで、お線香の形としては一本線香となりますが、これが沖縄流になりますと、最初から六本が平たくくっついた「平御香(ヒラウコー)」と呼ばれるお線香を使うというのです。
我々が使うお線香は防虫消臭機能が起源の菊の葉成分のものですが、沖縄線香の「平御香」はでんぷんから出来ているため、お線香の効能としての香りは余りないようです。
諸説ありますが、その六本がくっつく形になったのは、より多くの祈りを奉げるためにそのような形になったと言われているようです。
加えて、沖縄独自の宗教観はお線香だけではありませんでした。
お供え物も沖縄独特のものがあります。我々は精進(肉や魚を使わない物)を仏膳としますが沖縄では、豚肉をお供えするようです。
昔豚肉は高価なもので、栄養価も高く、故人が少しでも良いもの、美味しいものを食べられるように、ご先祖様や神々に敬意をもって豚肉を供えしていたようです。
細かく見ていきますと限りなく独自の宗教文化を大切にしてきた沖縄ということは理解できます。自然と共に生き、自分たち人間ですら自然の中の一つにすぎず、法律で禁止される一昔前まで、風葬や土葬をしていたことも理解できます。
そして沖縄の昔ながらの宗教観を重要視するご家庭では、弔事にはお坊さんではなく、霊媒能力があるとされるユタさんという人や、家の長による御願を用いる家も多いようです。
今では、ネットの普及により幅広い情報収取が可能であり、人々が土着するだけでなく、多方面からの移住により文化の混同が知らず知らずになされ、沖縄でも一般寺院による我々と同じ仏教方式によりご先祖様をお祀りすることも見受けられるようになったようです。
とは申しましても沖縄の独自文化の尊さに敬意をはらい、いま残された文化が、過去の遺産としてだけではなく、琉球・沖縄の確たるものとして、これからの礎となることを願ってしまいます。
そして、地域が違えども、拝み方が違えども、習慣が違えども、どんなことが違っていても、神仏に願い祈る気持ちに違いはなく、と同時に、どんな人でもこの世に生まれた人間にはご先祖様が必ず居て、お見守り導いて下さっているという感謝の気持ちは同じだということです。
その気持ちさえあれば、どんな状況の時でも、たとえ雑踏に押しつぶされそうになる時があっても、ひと時、神仏に祈りを捧げ、心を整えることが出来さえすれば、それが真の幸せなのだと感じ頂けると存じます。
合掌 輝空談