心の火
春はいつやって来て、いつ去って行ってしまったのか分からないくらい、あっという間に初夏というには暑すぎる夏がやってきました。
それでも、四月だけは例年になく気温の低い日がわずかに続いたので、桜の花見は幾分長く楽しめたものの、やはり直ぐに熱風が肌にまとわりつく気候となってしまいました。
一年の季節の大半を夏と冬が多くを占め、一時の季節の変化を見逃すまいと必死に春を探すことが例年となってしまいました。
そして泉福寺では五月は花まつりの行事の月です。
残念なことに今年も稚児の行列や甘茶売りはコロナの状況により協議の結果中止となりましたが、やはり花まつりという言葉をお耳にすると新一年生の初々しい姿が思い出され、ワクワクウキウキしてまいります。
新一年生が登校する姿は、足取りが上級生のようにしっかりとしていないので、中々前には進みません。おまけに体からはみ出すほどに大きなランドセルが重いのか、妙にバランスが悪く、それが逆にたまらなくかわいく、微笑ましく見えるのです。
もう我が家には小さい子がいないので、人様のお子様を遠めに愛おしく見ることで、何とも言えず心の癒しとさせて頂いております。
そんな折、新聞の一記事が目に留まりましたので、その記述をちょっとお披露目致します。
芥川龍之介
痛い箴言(しんげん)である。
灯っているのはわずかの間、もたもたしているうちに消えてしまう。
湿っていると点かない。もちろん別のマッチ棒でやり直すことはできるが、本数に限りがあって、ずっと灯り続けるわけではない。
燃えかすはしっかり消さないと、別のものに燃え移って、ときに人様を巻き込む大惨事となる。
『侏儒の言葉』から。
成る程とうなってしまいました。木片の先端に着火剤を付けたものがマッチ棒の描写です。それをざらついた紙面にこすりつけ、火をおこす行為をするのがマッチの役目です。
そんなことは今更言われなくても分かりきったことです。
ただこの見方は人生というより私は、人育て(教育)にとても似ていると感じました。
大がかりな機能ではなく単純な道具でありながら、きちんと消さなければ大火事の大惨事を引き起こすマッチ棒。
人育て(教育)も、時にとんでもない過ちを引き起こします。
誰もが、元気にすくすく大きくなあれ、病気にならないように、事故に合わないように、愛する人と出会うように、自分の生きがいを見つけ出すように、願いはやませず、愛されて育てられたはずです。
それがどこかでボタンの掛け違いが起こり、取り返しのつかない犯罪行為にまで人間が変わってしまうことがあるのです。
その子には罪はないのかもしれません。貧困が背景にあったのか、虐待があったのか、社会の思想がそうさせたのか、考えは社会全体を考えなければならないほど、深く根を張ったものが一つに事件を引き起こしている のだと考えさせられます。
マッチ棒なら火事にならないように手の中で注意を払えばいいものですが、人間の怒りや憎悪の心の火は簡単には消せないものです。
今ウクライナでは、ロシアの侵略による戦争がもたらされております。
その残虐性はすでに報道で周知のほどでございます。
誰がロシアの人の心に怒りの火を点したのでしょうか。
誰がその怒りや憎しみの火を消してくれるのでしょうか。
愛されて育った赤ん坊が大人になり、いつから残虐な行為をするようになったのでしょうか。
情報統制され本当の真実を知らされていないロシアの人も、また被害者なのかもしれません。
たった一人の指導者が一本のマッチをウクライナに投げ入れたのです。
そこから戦争という悲劇がもたらされたのです。
あまりに愚かで、なんとも悲しい出来事でございます。
平和は当たり前の人間の営みであるはずが、今は平和ほど簡単ではなく、最も手に入りにくく、そして脆いものだと思えてなりません。
人間はいつになったら、何度経験したら、平和を学ぶのでしょうか。
悲しみに暮れ合掌
輝空談