泉輪 令和5年春彼岸にむけて



卒業証書授与


能登半島地震で被災された皆様へ

この度の令和六年能登半島地震によりお亡くなりになられた方々にお悔やみ申し上げますと共に、被災された皆様並びに、そのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
また、被害に遭われた地域の方々のご無事をお祈り申し上げ、被災地の一日も早い復興、そして被災された皆様の生活が一日も早く平穏に復することを心よりお祈り申し上げます。
どうか、ご家族や地域の皆様と共に、一日も早く立ち直り、元の生活に戻れるよう心から祈念申し上げます。
尚、京都総本山光明寺より、能登半島地震復興への義援金のお願いが参りましたので、話し合いの結果、些少ですが、本山あてに義援金のご郵送をさせて頂きました。その義援金は日本赤十字社をとおし、全額復興支援に充てられます。

うららかな春の到来でございます。冒頭でご挨拶申し上げましたとおり、お正月に甚大な被害をもたらせた能登半島地震が勃発致しました。
いまだインフラの完全復旧がなされない中、多くの方々がご不自由な暮らしを強いられているところではございます。このような厳しい環境の中ではございますが、それでも、このうららかな春だけは、どの地にも当たり前に訪れたのでございます。

そして、当然でございますが、この三月という月は、その年の年度が終わろうとする一年の締めくくりとなる月です。
年度末として事務的にも、税金などの法的にも煩雑にざわつく月でございます。
また、転勤や卒業、進学などの節目を迎え、泣き笑いの出会いや別れもあったご家庭もおありだったのではないでしょうか。
特に能登の被災地での卒業式の報道には、前を向いて歩んで欲しいと、強く願ったものでございます。

私どもも、この一年を思い返してみますと、多くの方をお見送りし、お浄土への旅立ちを見届けました。
そこには往生という人の死が関わるのですから、この上ない複雑な感情が入り乱れたご家族とお会いすることとなります。誰もが味わう途方もない悲しみと、永遠の別れという事実を、受け止める努力に疲れ果てた気持ち、それに反して、やっと死をもってこの世の苦から解き放たれたのだと言い聞かせる自分と、あの世で先に往かれた方がお待ち受け頂き、にこやかに再開していることを想像する安堵、そしてまた、途方もない悲しみが海岸に打ち寄せる波のように何度もやってきては、感情が渦のように繰り返し、終わりが尽きない心に駆られた方もおられたことでしょう。

また、当然人間ですから、そんな悲しみの中でさえも、眠くもなりますし、お腹もすきます。そんな人間の当たり前の営みが、故人様に対して申し訳なく感じてみたり、そのくせ、ふっとしたことに笑いが起こり、泣いているのか、笑っているのか、感情があるのか、感情が無くなってしまったのか、自分が分からなくなることが多々見うけられるのです。

人がお亡くなりになることはこの世に生きている限り誰にでも必ず起こることです。
そのことは絶対で、逃れることはできません。
そして生きている時間が嬰児のように短くても、長寿で長くても、突然の別れでも、みんなに見守られて息を引き取っても、苦しんでお亡くなりになっても、安らかにお亡くなりになっても、満足に生き抜いた方でも、無念に思われていた方でも、どれも、どんな亡くなり方でも、お亡くなりになられた皆様が阿弥陀様のところに間違うことなく生まれ変わっておられていることだけは間違いございません。

私ども浄土の教えは、この世は修行に来ているだけの一時の事で、本来の魂の住む世界は極楽浄土と説かれております。

仏教を開かれたのはお釈迦様ということは既にご存じでしょう。
この世に実在し、生身であったお釈迦様が、この世で生きている間に、悟りを開かれ、浄土の世界を説かれました。大宇宙の中に数えきれない仏様がおられ、その中で一番大きなお力をお持ちの仏様が阿弥陀様だとお話し下さっておられます。
そして自分が亡くなったら阿弥陀様の下で仏弟子になると言われたのです。そしてその言葉どおり、お釈迦様は釈迦仏という仏様になられました。

ここでお分かりの通り、仏教をお開きになられたお釈迦様の先生の仏様が阿弥陀様なのです。その途方もないお力をお持ちの阿弥陀様が我々の魂を余すことなく救い取られ、お浄土にて仏様として生まれ変わらせて下さっています。
お亡くなりになられた故人様の魂は、今まさに光り輝き安らぎに満ち溢れておいでです。

その安穏を知れば阿弥陀仏に感謝し、手を合わせずにはいられないほどです。
ご先祖様をお祀りの皆様は日々の暮らしに感謝し、新仏様を迎えられたご家族様には、まだ故人様の魂はホヤホヤの仏様になられたばかりですので、お浄土での安穏を願うと共に、一時の別れをお許し頂き、この世の人生の修業を全うされて下さい。
そして、故人様を思い出すたびにお念仏され、故人様の魂との絆を持たれて下さい。

改めてその絆という文字を見て下さい。
糸の半分と書かれております。その文字の成り立ちでお分かりのとおり、絆を深めるためのお浄土からの糸は半分しか無いのです。
その半分の糸では我々の元には届かないのです。では残りの半分の糸はどうするのかといいますと、残りの半分は皆さまがあの世に向けて差し出すしかないのです。
その半分の糸となるのが、皆様の南無阿弥陀仏というお念仏の言葉だけなのでございます。間違うことなく故人様と再会できるための絆の糸をお念仏で結び合わせ、さらに太く強くするために、お念仏を重ねていくことが大事なのです。
この絆という文字の説明は、よくこの「いずみの新聞」でも書かせて頂きましたが、震災が起こると改めて絆の持つ意味の力を考えさせられます。

それでも、新仏様をお迎えになられたご家族には、悲しみが深く、すぐには絆の意味を実感することは難しいかもしれませんが、いつしか故人様が無事にお浄土で過ごされていることをお感じになられる不思議を味わうことになるでしょう。
その時は、少し悲しみが和らぎかけ、心の整理と共に、生きる勇気を持ち始めたころかと思います。

あんなことがあったな、こんなことがあったな、あの言葉、あの笑顔、あの喧嘩、あの心配、そしてあの喜び、どれもがかけがえのない幸せだったと、ひしひしとお感じになるでしょう。
どの思い出も有り難く、意味があるものであったと胸に刺さるものばかりです。それを自分に知らせるために故人様の命は生きたのでしょう。
その役目を終えて、お浄土に帰られたのでしょう。

だからその時は故人様にお伝え下さい。
「人生の卒業おめでとう!ここに卒業証書を授与します!」と胸を張ってお声掛けください。寿の命と書いて寿命、みんな持っている寿命です。
そしてその寿命がご卒業されたのです。

この春のお彼岸は、人生を卒業された故人様を思い、懐かしみ、今、生かされている自分を見つめるためによき彼岸をお過ごし下さればと存じます。
半分の糸の意味と、昼と夜の時間が同じ、お彼岸の中日が、私どもに多くを教えて下さっていることに深く、深く感謝申し上げる次第でございます。

 

合掌
輝空談