泉輪 令和5年12月



土徳のありがたさ


師走の慌ただしい時候となりました。寒さが身に堪えますが、暑さが長引いていた分、暮れの空気はこんなだったなと懐かしく思えるような季節の到来でございます。
また、お寺に目を向けてみますと、泉福寺を含む多くのお寺は、十一月に一番大きな法要であるお十夜法要を終え、暮れの大掃除へと、時間の作りが変わっていく過渡期を感じている今日この頃でございます。皆様におかれましては、いかがお過ごしでございますか。

さて、唐突ですが、「土徳(どとく)」という言葉を皆様ご存じでしょうか。
この言葉は美術評論家であり、宗教哲学者でもある柳宗悦(やなぎむねよし)が作り出した造語でございます。柳はまた、民芸活動の祖とも呼ばれ、名も無き人による日用品の手作りの匠を民芸美として世に語った活動家でもございます。

今の世の中で民芸品と言えば、旅先のお土産売り場で、その地域に特化した今はあまり使われることのなくなった懐かしい品物といったイメージでしょうか。
しかし本来の民芸品の意味は、その地独特の品物で、暮らしに調和し、使い手の立場にそった、機能美を追及された品をさします。

今台所で、「ざる」と言えば、プラスチックやアルミ、ステンレスの金属が大方を占めているのではないでしょうか。しかし、一昔前は竹で編んだ「竹ざる」でした。
また、今ではお湯は電機ケトルで沸かす時代ですが、同じく一昔前は鉄瓶が火鉢にかかっていたものです。その一品一品は、無名でありながらも熟練した作り手が実用性を追求し、耐久性に富んだ、しかもそれぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かなものが多用されていたのです。
その品々の形は、個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものであると、柳は説かれております。

また、そこに宿る民芸美の内容を、柳は「無心の美」、「自然の美」、「健康の美」であると説明し、その精神の根底が浄土の世界と重なると語られておられます。
仏教思想に基づく新しい美学の集大成であり、柳自身の美的体験に深く根ざすものであったといわれております。 

なぜ、無名の職人のつくった「用いるための器物」がかくまで美しくなるのか。
柳はそれを「信と美」の深い結びつきの結果であるとし、これもまた、凡夫[ぼんぶ]をも救い助ける仏の力、すなわち他力[たりき]であり、阿弥陀仏の本願の力の恩恵に他ならないと説いたのでございます。

また民芸の成り立ちは、日本の地形も大いに関係しております。
日本は、自然地理の条件から見ると、南北に長い国土を持ち、気候的にも寒い地方から暑い地方へと変化が大きいので、そのことによって、各地にさまざまな生活様式を生み出し、種類豊かな工芸品の素材を自然のなかに育んできたのです。
中でも日用雑器に目を向け、鉄瓶、ざる、器を作る過程で、徹底的に形をシンプルにし、機能性が高く、安価で、その物の在り方を、不要な要素を最大限にそぎ落とし、残された限られた要素の最小限の機能が積み重なり、その雑器を作り上げているというのです。
そこに土地の風土が加わり、その地の空気、水、空間環境の要素が相重なり、一つの民芸品が芸術に匹敵する力強い魂の叫びをかもし出しているのです。

その力を柳は「土徳」と言い示したのです。しかし、そのような名工が作り出す日用工芸品も、大量生産、大量消費の波に押され、後継者不足や技術伝統の継承の難しさから、絶えゆくものがほとんどでございます。
また、地域の風習、文化も核家族化が進み、伝統の継承が希薄になりつつあります。
都会ではお隣さんはだれが住んでいるのか分からない、なんていうのも当たり前と言われております。我が家でも、次男、三男が独りでアパート暮らしをしておりますが、引っ越しのあいさつは一切禁止と不動産業者さんから言われたほどでございます。
なんとも悲しいものでございますが、それが現実なのです。

ところが、その世の中の流れに対して、ここ泉福寺のお十夜法要では、新仏を迎えられ、その仏様をご供養するご家族が、親族一党でお集まりになり、一心に念仏を称えられておられます。他のお亡くなりになられた方と顔見知りでなくても、互いにお参りし合い、供養していく姿に、これもまた柳の説いた「土徳」だと私は思いました。

今現在、昔ながらのお十夜法要の形を残しているのは、全国を見渡してみましても、成されているお寺は、お隣の波津の真福寺さんと、うちの泉福寺だけでございます。その継承が絶えることなく続いてこられたことに、皆様の厚い信心の心と、先任の遺徳に感謝するばかりでございます。

私は京都よりここ泉福寺に来ました。家内も北九州から来ました。
二人とも鐘崎の土着の人間ではございません。ただ月日と共に、この鐘崎の水と空気を共用する中で、大地から、また地域の人々からによって鐘崎の人へと育ててもらったような気が致します。それもまた、私たちが得た「土徳」だと思っております。

過去数年はコロナの脅威に法要の在り方を問われ、自分の足元を考え直す恐怖と、時代に合った新たなる継承の決意をしたばかりです。
その決意は次なる目標意識となり、そして迎えたこの度のお十夜法要は、今まで以上に厚い思いで勤めたものでございます。そして、コロナ前の過去同様、いやそれ以上のご参詣の皆様のお姿を目の当たりにし、報われた安堵と、皆様の仏心に有難く思うばかりでございます。

お十夜法要は面倒だとお感じになられる方もおられると思われますが、千年の徳を積む法要と言われるだけあって、厚い仏の御心を感じる法要でございます。
それをこれからも形変えることなく継承し、皆様にも参って良かったと思える法要にしていきたいと思っております。
どうぞ皆様の仏心栄華を祈念するとともに、今後とも泉福寺をよろしくお願い申し上げます。

合掌
輝空談