奈良に浄土を知る
極暑の折、皆様お体ご自愛されておりますでしょうか。体の全てが沸騰してしまいそうな暑さでございます。
暑さ故、私なんか家から一歩も出たくはないと思ってしまいますが、そんな時候の中に反しても、観光業界は賑わいを戻しつつあるようです。
コロナによる規制が緩和され、人々が観光を楽しむ機会が増えてきたのでございます。
とりわけ、京都、北海道、沖縄、そして奈良もまた観光客の多い都道府県の一つではないでしょうか。
奈良と言えば、何と申しましても、やはり東大寺です。修学旅行をはじめ、多くの人々が出向かれているようです。
その奈良東大寺については、名前は知りつつも、それ以外の知識が乏しい方も多いのではないでしょうか。東大寺は華厳宗の大本山でございます。
その東大寺をそのように呼ぶようになったのは後のことでございまして、前身のお寺は、国分寺でございます。国分寺とは朝廷や幕府の直轄のお寺であり、寺を維持していく費用のすべてを官から支給されるという擁護を受け、かつ朝廷や幕府から監督されたお寺ですので、今様に申しますと国立のお寺のような立場でございました。
そのような朝廷や幕府のお寺でありながらも、戦乱の世となりますと、大仏殿をはじめ、伽藍の大半が焼失し、更地となってしまう悲しい歴史も経験したのでございます。
その後、多くの僧や民衆の支持を受け、復興の道へと進むわけでございますが、その復興に尽力されたのが重源上人という方でございました。
重源上人は真言宗を学び、山野で修行を重ねる一方、中国へ三度も渡るなど、様々な知見と当時の最新技術に通じている賢者でございました。
更に浄土教にも信仰厚く、復興事業が始まるとほどなくして、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、また帰依する人々に身分に関係なく、分け隔てずに浄土宗のお戒名の文字を授与するなど、念仏信仰をもって、人々の現世と来世にわたる平安の祈りにこたえようとされた方なのでございました。
真言宗を自ら学んだ重源上人が、なぜ浄土教を支持したのでしょうか。
それもそのはずです。東大寺の復興に当たった重源上人は、法然上人と深い交流があったのです。その法然上人を再建途上の東大寺に招き、重源上人が中国から持ち帰った善導大師のご真影(ごしんえい・肖像画)を前に、浄土三部経を講説したというのです。
これを機に法然上人は専修念仏への信仰を深められ、東大寺の教義である、自力の行を修して悟りを得る聖者の教法から離れたと伝えられております。
それでも東大寺と浄土宗との親密な関係は続いたのでございました。
そして、重源上人が中国から持ち帰った書物こそが、中国唐時代の僧・善導大師が著した『観無量寿経疏』という書物で、その中に、「一心にもっぱら阿弥陀仏の名を称え、いついかなることをしていても、時間の長短に関わらず、常に称え続けてやめないことを正定の業という。それは、阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである」との一文に出会い、凡夫もお念仏により浄土への往生が叶うことに確信を得たのでございます。それが浄土宗の始まりなのです。
一説には、法然上人がはじめて対外的に自らの浄土教義を説き示し、またその名を知られる契機となった大原問答の折には、重源上人も聴衆に連なったとも伝えられ、お二人の念仏信仰を通じた深い交流がうかがえます。
重源上人と法然上人の結びつきの中、共に東大寺の復興は進められたのです。そして東大寺の建物の中でも、大仏殿の西方に所在する「指図堂」の復興に当たっては、浄土宗諸寺院の温かなご援助があったこと記す記録が今も残っております。
東大寺復興の歩みには、法然上人以来の浄土宗のご縁が息づき、お念仏の信仰が脈々と流れているのです。それ故、東大寺指図堂は浄土宗の開祖・法然上人の霊場として今も人々の信仰を集めています。
法然上人が奈良に行くことがなければ、重源上人が中国より『観無量寿経疏』と いう書物を持ち帰らなければ、そして、重源上人と法然上人のお二人が出会わなければ浄土宗は確立されなかったのです。
そして、浄土経の精神が宗派の垣根を 越えて人々の信仰に大きな影響を与えた法然上人の遺徳に有難く感じ、今もなお、 人々の信仰に受け継がれている今日に妙縁追従の感謝ばかりでございます。
合掌
輝空談