法然上人の足跡をみる
法然上人の生きた時代は、朝廷内でだれが天皇になるかと争いが起きており、その争いに乗じて自分の権力を広めようとする上流貴族や武士たちの戦が立て続けに起きていました。
それに加え大地震や飢饉、疫病にも襲われ、民衆は安心安全な生活を送ることが出来ず、絶望の淵にいたのでした。また、仏教は一部の上流階級の中でしか信仰されず、時代とともに仏の教えが民衆に届かなくなっており、今後ますます乱世になるという「末法思想」も、当時の人々の間で不安として広がっていました。
そんな「末法の世」の中でも、ただ念仏を称えるだけで救われるという法然上人の専修念仏の教えは、出家して修行したり、寺社に寄進したりすることのできない庶民に広く支持され、瞬く間に全国の民衆へと広まっていったのです。
そうなると、法然に対して既存の仏教教団からの反発は当然のことながら強くなり、特に奈良仏教の中心的存在の興福寺は当時、力を持っていた藤原氏の菩提寺でもあり、朝廷とのパイプも太く、その人脈を利用し、法然上人たちの念仏集団を弾圧しようとしたのです。
その動きに対して朝廷も、同じく大きな宗教集団であった比叡山延暦寺の僧侶たちも、どうしたものかと思案していた矢先、とある事件が起こったのです。
ある時、後鳥羽上皇が熊野に出かけている間に、法然上人の弟子二人が開いた念仏会に上皇の女官らが参加したのでした。
彼女たちはその説法に感銘を受け、もっと説法が聞きたいと彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとそのまま御所に泊めたのでした。更に彼女らの中には出家を志願する者まで出てしまったのです。
女官の一部が出家したことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った上皇は激怒し、保留していた法然にまつわる対応が急展開し、専修念仏の廃止を決定したのでした。そしてその一連に関わった四名の僧を処刑したのでした。
それでも、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む七名の弟子を流罪に処しました。
念仏停止(ねんぶつちょうじ)の命令が下り、法然上人は四国の高知へ流罪の身となったのでした。
法然に深く帰依していた当時の関白・九條兼実(くじょうかねざね)は、せめて高齢の法然上人にとって過ごしやすい土地へとの願いから、比較的温暖な四国に決定したとされております。そして、法然流罪後、兼実はその悲しみがあまりに大きく、一種のショックで亡くなったと伝えられております。
当時、奈良時代に制定された「僧尼令(そうにりょう)」という、今で言うならば宗教法人法のようなもので、僧侶を死罪や流罪にしてはいけないという条文がありました。
その解釈をくぐり抜けるため、法然は流罪にされる際、還俗(げんぞく)を受け、僧籍の資格を剥奪されたのです。法然は「藤井元彦」という俗名を与えられて、俗人として処罰されたのであります。
また、一言に高知へ流罪といいましても、交通の手段は歩きや馬、船しかなく、何日も何日もかかって移動したのでしょう。
そしてその法然上人が流罪地に向かう途中での出来事です。播磨国(現在の兵庫県南部)・室の泊に法然を乗せた舟が着いた時、一艘の小舟が法然の舟に近付いてきました。
その小舟にはある遊女が乗って
いました。そして、遊女は法然上人に遊女として体を売ることで生計を立てているその身の罪の重さから、そんな自分でも救われる手立てがあるのかと法然上人にうったえたのです。法然はとても不びんに思い、こう応えました。
そのような生活では罪業も重いでしょう。
そして、その報いも計り知れません。
可能ならば、その生業をやめてしまうのが良いでしょう。
しかし、他に生きていく方法がないのならば、
その身のままで念仏を称えなさい。
阿弥陀仏はそのような人々のためにあるのです。
ただ、阿弥陀仏の本願にたのんで、
決して御自身を卑下する必要はありません。
本願を信じて念仏を称えるならば、疑いなく救われるのですよ。
遊女は法然からの教えを聞いて、そのあまりの有難さに涙を流して喜んだといいます。
その遊女の名は本名を「ふき」と言い、元は木曽義仲の第三夫人で、京都では山吹御前と呼ばれていました。その後、義仲の死により彼女は京都を追われることとなり、逃げる途中の室津の地で、身ごもっていた義仲の子を死産してしまいます。
その子の供養のためその地に留まり、後に遊女となったわけであります。
その遊女は法然上人の言葉に従い、室津にある浄土宗の寺院、浄運寺(じょううんじ)に出家しました。
その浄運寺には不思議な仏様が安置されております。浄運寺のご本尊・阿弥陀如来像は、鎌倉時代に快慶仏師の製作と言われており、近年に何と、仏様胎内に阿弥陀如来像と小さな球状の体内仏が確認されたのであります。
しかも仏像自体は鎌倉時代の作でありながら仏像体内から見つかった仏様は江戸時代に作られたものと分かっております。
だれが何のために体内仏を安置したのかは定かではありませんが、浄運寺は中世に法然上人が、この地にいた遊女たちに説教をした場所として知られた霊跡でもあり、子供とその子供の遊び道具である鞠(まり)を連想させ、遊女の慰めとされたのかもしれません。
どの時代どの地にも、はかなき思いが数知
れずあり、その慰めに法然上人のお念仏が
導きになったことに感慨深く感じるもので
あります。
合掌
輝空談