あなたの善業を問う
彼岸の時候が近づいてまいりましたが、九月というのに秋めいてくる気配を感じませんね。言わずと知れず、残暑厳しい折が未だ毎日続いておりますが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
また、過日となりましたが、お盆前に福岡県下で集中豪雨が発生し、周囲でも被害が出ていると耳に致し、皆様のお宅はどうだったかと案じるばかりでございました。このような災害が起こるたび、人間の力なんて自然を前にすると、全く力が及ばぬことは理解していても、猛威の怖さに慄き、何をすればいいのか、何を用意しておけばいいのか、備えを憂うばかりでございます。
被害に見舞われた皆様には、心からお見舞い申し上げ、一日でも早い復旧復興をお祈り申し上げます。
さて、本日は、過日のゲリラ豪雨から、自然の恐るべき力を考えさせられるように、私ども人間も、この地球に生息する一生物と再認識の上、他の自然生物の力をも見直してみたく筆をとってみました。
と申しますのも、NHK朝ドラの「あんぱん」で、世間をにわかに賑わしております「手のひらを太陽に」の歌に出てまいります、「みみず」だって、「おけら」だって、「あめんぼ」だって、の歌詞に触発され、今回のいずみには見過ごされがちな小さな生き物のその意外な力を描きたく、且つ、勝手に朝ドラにライバル心を抱きつつ、意地になったと言われても過言ではない状況で認めさせていただきました。
で、この凡人の私が考えた日ごろ気にも留めないような小さな自然の中の生き物、それは「蜘蛛」についてでございます。
蜘蛛と申しますと、あの蜘蛛の糸が一度顔などにかかりますと、甚だしつこく、なかなか取れずにイライラを生じさせる発生源なのでございます。
そのいまいましさを頭に起きつつ、それだけでは執筆が進まないので、広げて考えてみたものが、文学的な観点から蜘蛛繋がりで、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と行き着いたわけでございます。
この「蜘蛛の糸」は、世間には知られておりますものの、ご存じない方のために改めて内容を解き明かしてみます。
文略は、極楽の蓮池のほとりにいるお釈迦様が、地獄を覗き込むところから始まります。
そこで、悪事を重ねてきた大泥棒の犍陀多(カンダタ)が地獄で苦しんでいる姿をお釈迦様が見つけます。
犍陀多(カンダタ)は数々の悪行をしてまいりましたので、地獄で苦しむのは当然であり、弁解の余地はございません。
ただ、そんな極悪非道な犍陀多(カンダタ)でも、過去にたった一度だけ、善い事を致したことがあったのです。
それはある時、林の中を歩いている際に、小さな蜘蛛を見つけ、そのまま踏み殺しかけそうになったところを踏みとどまり、その命を助けたことでした。人を殺めたことのある犍陀多(カンダタ)は、まるで自分のしてきたことを棚に上げるがごとく、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみにとるという事は、いくら何でも可哀そうだ」と、どの口が言うのかと目を見開くばかりですが、まさかの思い直しにより、蜘蛛を殺さずに助けてやったのです。人の命を奪うよろず者が、意外にも人の目にも止まらぬ小さな命を救い守ったのです
この小さくとも純粋な他者への思いやりがお釈迦様の目に留まり、彼が地獄から救われるきっかけとなります。
日ごろ悪事を繰り返し、人を殺めていた犍陀多(カンダタ)でしたので、気まぐれに小さな蜘蛛の命を助けたことは奇跡のようなことでした。
お釈迦様は、その奇跡の善行に報いるため、極楽の蜘蛛が放った一本の美しい銀色の蜘蛛の糸を地獄に下ろします。
犍陀多(カンダタ)はその糸を見つけ、これを掴んで地獄から這い上がろうと一生懸命に登り始めるのは当然の流れです。
そして、地獄と極楽の間には途方もない距離があり、犍陀多(カンダタ)が糸の途中で休んでいると、下から数えきれないほどの罪人たちが自分を追って糸を登ってくるのが見えます。
自分だけが助かりたいと考えた犍陀多(カンダタ)は、「このままでは重みで糸が切れてしまう」と考え、「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ!お前たちは一体誰に聞いて登ってきた!下りろ、下りろ!」と叫びます。
その瞬間、蜘蛛の糸は犍陀多(カンダタ)の頭上で音を立てて切れ、彼はコマのように回転しながら再び地獄の底へと落ちていくのでした。
お釈迦様は、この一部始終を見て悲しそうな顔をされ、再びぶらぶらと歩き始めましたとさ。
という物語です。
あの細い蜘蛛の糸に何人もの人が掴まれば、重さに耐えきれず切れてしまうと思うのは当然なのですが、そこには仏教意義が込められ様々な教訓として悟されているのです。
犍陀多(カンダタ)の自己中心的行動がもたらす結末と、他者への思いやりの大切さを静かに語りかけ、人々に自分自身の生き方を見つめ直すきっかけとなっております。
また、自己中心的な行動がもたらす破滅は、自分だけが助かろうとする利己的な行動であり、結局は自らの破滅を招く因果応報を思い知らされています。
ただ、面白いことに、小さな善行の価値として犍陀多(カンダタ)のわずかな善行(蜘蛛を助けたこと)が、彼に救いのチャンスを与えました。これは、どんなに小さな善行でも無駄にはならないことをも示しています。
『蜘蛛の糸』は、一九一八年(大正七年)に児童向け雑誌『赤い鳥』に発表された芥川龍之介のはじめての児童文学作品です。
この物語の元になったのは、ポール・ケーラスという宗教学者が書いた『カルマ』という説話集に収められた「The Spider-Web」という話だと言われています。
この『カルマ』を仏教学者の鈴木大拙が『因果の小車』という題で翻訳し、芥川がそれを読んで作品を創作しました。
題材に地獄を用いて、自己中心的行動がもたらす破滅をもたらす意図を盛り込んだことは理解できますが、子どもへ向けた児童文学作品とは驚きです。
児童文学としては重い内容だと感じつつも、身から出た錆によってまた地獄に落ちてしまう、分かりやすい教えとなっています。
普通ならば、ここで法話として話が終わるところですが、別の角度から蜘蛛の糸を考えてみましょう。
実際の蜘蛛の糸は、その神業的な細さにもかかわらず、非常に高い強度と柔軟性を持つ天然素材だそうです。
強度の特徴は、同じ太さに大きくしたとして比較すると、何と蜘蛛の糸はスチールワイヤーと同程度の強度だそうです。
鋼鉄に置き換えますと、約五倍の強度を持つとも言われています。また、性質として、伸縮性に富み、 ナイロン並みに伸び縮みし、引っ張ると二倍くらいまで伸びる糸もあるそうです。
更には、耐熱性は、三〇〇度の熱にも耐えられます。ということで、このデーターを基に計算すると、直径0.5㎜の蜘蛛の糸があれば、体重六〇㎏の人間を吊り下げることが計算上可能となるらしいのです。
人間がぶら下がるためには、蜘蛛の種類にもよりますが約三万から約五〇万本が必要となり、途方もない数値ですが大変興味深い実験結果でした。
さてさて、強度もあり、地獄の灼熱にも耐えられる蜘蛛の糸です。
お釈迦様はその特異な蜘蛛の糸の性質を知ってか知らずか分りかねますが、お浄土から地獄に放つには最もふさわしい代物をお選びになられたと化学が証明しております。
化学を横に置いたと致しても、お釈迦様がお浄土から垂らされた蜘蛛の糸はどのような意味と犍陀多(カンダタ)への試しがあったのかと、思んずるばかりでございます。
もし、犍陀多(カンダタ)が、みんなを拒むことなく引き連れて登っていたら、無事にお浄土に行き着くことが出来たのでしょうか。
いやここで糸が切れることで、我々に問題定義を問うことが出来るのですから、お浄土まで上り詰めたら元も子もない設定となってしまいますが、されとて、あなたなら、人を助けるために、己を犠牲にしてもいい覚悟で、善業に努めますか?また一方では、悪行極まりない人だから、地獄に落ちっぱなしが丁度いいと、脳裏に描きますか?
実際に、善業だけをし続けられないのが人間であり、めでたしめでたしでは済まない世の中を思い知らされるのが現実です。
生きている限り苦はいつでも付きまとうものだと感慨深く思いながらも、欲深き自分の足元を再確認し反省する為に、朝と夜の時間が同じお彼岸の中日が、日常の善業と悪行のせめぎ合いと見て取れ、お彼岸の意義にふさわしいように思えてなりません。
そして、あなたの愚業を仏様やご先祖様に語らい、反省し、今生きている安穏に感謝できる、この日本の地に生まれた奇跡に、手を合わせずにはいられず、平和に感謝するばかりでございます。
合掌
輝空談