泉輪 令和7年5月



尊き平凡


桜の見ごろを終え、新緑の季節となりました。三月のお彼岸に季節外れの雪が降り、四月に入っても朝夕の冷え込みを感じていた、と思ったのもつかの間、一気に初夏を思わせる気温上昇です。
これでは植物も息つく暇もなく、後ろから押されるように成長をしていかないといけない自然環境です。

それでも新年度のこの時期は良いですね。小学校に上がったばかりの新一年生の姿がかわいくて仕方ありません。
今どきのランドセルが、べらぼうな価格と驚きましたが、デザインにもこだわりがあり、個性満載のランドセルです。しかも一年前から購入が始まるというのですから、植物の季節代わりの慌ただしさ同様にランドセル準備も慌ただしいこの頃のようです。

また、高校を卒業する春休みに車の免許を取得し、初心者マークの運転手を目にするのも今時分です。
私の初心者運転の時は、ポンコツは当たり前で、型の古いオンボロ車に乗っていましたが、今は世の中どこを見渡してもオンボロ車なんてトンとお目にかかれず、皆さん洒落た車に乗っているのも時代でしょう。

その車には当然として、ナンバープレートが付いております。この頃はその四桁の数字に、ドライバーの気持ちや思いが込められていることが多くあります。
今より平和な時代は、ご自分の生年月日なんかにする方がいて、しかもその番号はキャッシュカードの暗証番号も同じだったりして、今思えば、泥棒に入ってくださいと言わんばかりの個人情報をまき散らしていたのですから、何とも末恐ろしいことをしていた方もおられたでしょう。
今は、生年月日や暗証番号なんてものはもってのほかですが、やはり希望番号を取得されています。そしてその番号にはなにがしかの意味があり、その番号にされているのです。
人気のナンバーの例を挙げてみますと、語呂合わせで、「一一二二」「一一八八」良い夫婦、良いパパ、良い母などの意味合いでつけておられるようです。お寺の最寄りの駅、東郷駅そばの東郷外科社用車が「一〇五〇」だったので、東郷そのものでしょうし、お肉屋さんに駐車してあった車が「一一二九」だったので、良い肉なのでしょう。

ナンバープレート

我が家はと申しますと、リース開始年度にしておりまして、あと何年リース期間があるかと理解するためにその番号と決めております。皆様も希望すれば自分の好きな数字を指定し交付してもらうことが可能です。
 過日その車のナンバープレートのことでニュースが出ておりました。
何でも、「三五八」というナンバーが人気沸騰し、取れにくくなっているというのです。なぜ「三五八」は人気ナンバーなのか? 
数字から見て語呂合わせでは意味不明ですし、首をかしげるばかりでございます。
そしたら、ちゃんとその分野の専門機関があるのですね。
一般社団法人全国自動車標板協議会(全標協)という役所があり、確かにその「三五八」というのが人気で数が取りにくくなっていると証言されておりました。

その方の話によると、諸説あるものの人気の理由について、金運や安全運が高まるエンジェルナンバーと呼ばれていることが影響しているかもしれませんと述べられておられました。
そもそも、エンジェルナンバーとは何? というところから始めないといけませんが、エンジェルナンバーとは、まるで天使からのメッセージが注がれているような特別な意味を込め示される数字といわれています。私たち仏教徒からすれば、阿弥陀ナンバーとでもいうべきなのでしょうか。

そしてそのメッセージにつながる数字の意味に、更に風水の考えを取り入れているようです。
風水の知識がない愚僧にて、受け売りのように調べてみますと、まず風水では数字の「3」が金運、「5」が財運、「8」が最高の数字を意味するそうです。
その風水的な考えで最強の数字を並べた「三五八」に思いを込めたというようです。更にネットでは、昔から「三種の神器」や「八百万神(やおよろずのかみ)」、「五魂(ごこん)」などの言葉に使われているように、縁起の良い吉数とされてきました、とありますが、かなり強引な紐づけのように感じます。

更に仏教的な解釈を述べられている方もおられて、仏教の開祖であるお釈迦様が悟りを開いたのが「三十五歳八か月」だとか、日本へ仏教が伝来したのが「五三八年」だとか、はたまた真言宗の開祖である空海が涅槃に入った年が「八三五年」など、仏教における歴史上、神聖とされる複数の出来事に「3」「5」「8」が含まれていることも由来とされていますと、力説されている方もおられます。
なんだか、何でもござれの様な感は否めませんが、人々が数字にでさえ、意味を見つけ、願いを込めることは日常的にあるようで、やはりその心理の裏には、人がいつでも幸せを願うからこその証といえるでしょう。 誰でも幸せになりたいです。不幸になりたいと願う人なんて一人もいません。自分にとっての幸せとは何かを考えない人はいないのです。

そもそも人は自分の意志ではなく、見えない力で導かれこの世に生まれてきます。
そして決して平たんではない人生の道を歩み、寿命全うするまで生きることを強いられるのです。いばらの多い人生の中で人はふと、何のために生きているのか、なぜこの世に生まれてきたのかと考える時もあるでしょう。その答えは誰にも出すことはできません。だから悩むと言ってもいいのでしょう。ただ、悩んでもどうせ絶対的な回答が出てこないのだから、なぜ生きるのかを考えるのではなく、自分はどう生きていきたいのか、自分は今どう生きているのかを考えるべきだと思っています。そして、今日一日が過ごせたこと、その一日の中にたとえ悲しみや苦しみがあっても、今日一日への感謝をし、明日を無事に迎えられることを願いましょう。
その永遠の継続が人生なのです。車のナンバーでさえ願いを込めなければならないほど、人々の周りは「苦」ばかりです。真っ当に生きていても、今では当たり前のように詐欺に見舞われる可能性があちこちにあり、隣を歩いている人は、誰でもいいから人を殺してみたかったと考えている人かもしれません。そう考えると一日が無事に終わることは奇跡の連続で出来ているのが今の世の中です。
過日の朝日新聞に、法政大学の総長が新入生に向かって述べた祝辞に、「今日から未知の問いに向き合い、自ら答えを見つけていく学びが始まります。」と激励したと掲載されていました。受験を突破し入学式に臨む新大学生には胸に刺さる言葉だったでしょう。そして自分のまだ見えぬ未来の輝きに胸を高鳴らせたはずです。

世の中はAIという人工知能開発が進み、人よりも電子機器が攻め入った生活になりつつあります。
その先端技術に身を置き、躍進する学生もいるでしょう。また新たな分野を開拓し世に名を残す学生もいるでしょう。その活躍も素晴らしいのですが、今は逆に普通に暮らすことが一番難しいのではないでしょうか。多様性が認められているからこそ、自分らしさがなければならない、とがんじがらめになるのではないでしょうか。
だれとも比べず、多くを望まず、今ある立ち位置の幸せを実感できる穏やかな暮らし、一見何の変哲もないありふれた平凡の中に代えがたい尊さが潜在していることに気づかされる喜びがあるのではないでしょうか。

そう考えられるようになるのも、ある程度の経験と人生を歩んできた智恵がようやくそうさせてくれるようになってきたからかもしれません。
普通が大事だよ、普通がすごいことだよ、そんな話を大学生にすることは野心に水を撒くことかもしれません。
ましてや、ピカピカのランドセルの小学生にそのような話をしても理解はできないでしょう。だから世の中みんなで見守ってあげましょう。赤の他人の小学生かもしれませんが、事故に合わないように、知らない人についていかないように願ってあげましょう。大学生が夢破れ挫折することがあっても、よくあることだよ、みんな経験しているよ、と教えてあげてください。それが人生の先輩の役目です。
そしてあなたが小さかったころ、あなたも周りの人からそう案じられ導かれていたのですから。それが世の中の恩です。時代の恩は減ることも増えることもなく同じ量だけ巡っていることを今さらながら知るばかりでございます。

合掌
輝空 談