お寺豆知識

ちょっと振り返ってみたお十夜風景

お十夜法要は、室町時代に起源を持ち、阿弥陀如来へ感謝を捧げる仏教行事です。特に浄土宗で大切にされており、「十日十夜法要」が正式名称です。
「十夜」という名前は、浄土宗が重要とするお経の一つである『無量寿経』の一節に由来しています。
この経典には、「煩悩が絶えないこの世で十日十夜の間、善行を積むことは、仏の世界で千年にわたって善行を修めるよりも優れている」と説かれています。

≪50年前の泉福の寺お十夜の様子≫
夜と名の付く法要なので、午後の6時から始まっており、しかも10日間みっちり法要がありました。
今のようにパート制に分けていなかったので、初十夜家全員が本堂に座っていました。
そしてその全員が最後までいるのです。当然終わりは、日付が変わり、朝の7時、8時です。
途中の休憩では、お膳を広げ、酒を酌み交わす大宴会。酒の肴は手作りお重箱。
あまりに長くて、布団をひいて寝る人もいたようです。布団の持ち込みはリヤカーで運びます。
また、一霊づつ順番に位牌を出して供養していました。
その位牌出しを、当時学生だった現住職が加勢として京都から来ていました。
その位牌の前には位牌が見えなくなるほどのお供え物があふれんばかりに積んでありました。

≪30年前の泉福寺のお十夜の様子≫
10日間から7日間、最後は3日間へと法要期間が変わりました。
午後1時から始まり、昼の部、夜の部と2パート制で行われるようになりました。
各パート途中で休憩があり、軽食を取って腹ごしらえをしていました。このころから仕出しの配達を頼む家も出てまいりました。
まだ温暖化の兆しはなく、寒さ対策で防寒の敷物を持参されるようになり、その敷物の場所取りが白熱し、熾烈な戦いが始まりました。
お供え物も各家々で用意するものから、お供え物代を集めて、代表者が一括して買いに行くシステムへと移行しました。

≪コロナ禍以降の泉福寺のお十夜の様子≫
副住職が加わり、フレッシュ感が出ました。
数年前から2日間の法要となり、4パート制が取り入れられ、1パート時間が短くなりました。
9時から開始となり、法要の終わりが夜9時ごろまでとなりました。
パソコン導入が始まり、諷誦(十夜お経)はパソコン印刷されるようになり、読み違いが激減しました。
休憩も取らないため、身軽にお参りに来られるようになりました。

≪昔から変わらない泉福寺のお十夜の様子≫
大勢の参詣者がお集まりくださり、自分のところのお参りだけではなく、他の初十夜家のお参りも全員がしてくださいます。
景気のいいくらいのお賽銭を投げ入れて下さるのも風物詩です。
お詣り下さる方が、安堵と感謝の笑顔で帰られる様子をお見送りすることが出来るのが、住職として毎年有難く思っております
泉福寺の昔ながらのお十夜法要を継承してくださる檀家様全員に感謝ばかりでございます。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

虚無僧(こむそう)
虚無僧

虚無僧(こむそう)とは、聞きなれない言葉ではございますが、禅宗の一派である普化宗(ふけしゅう)の僧のことでございます。
普化宗は唐の普化(ふけ)を宗祖とし、日本から臨済宗の僧侶が南宋に渡り、竹管吹簫(ちっかんすいしょう)の奥義を受け、1254年に帰国し、紀伊の国、興国寺に普化庵を設けて住まわせたことに始まります。竹管吹簫(ちっかんすいしょう)とは、中国古代の管楽器です。
簫(ふえ)の一種であり、長さの異なる複数の竹の管を一列に並べて構成されていて、西洋ではパンフルートと呼ばれています。

当時、虚無僧(こむそう)は「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の生活をしていたそうです。
尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、小袖着物に袈裟を掛け、深編笠(ふかあみがさ)をかぶり、刀を帯していたようです。僧侶なのに刀とは、驚きの姿でございます。

江戸時代になると徳川幕府によって以下のように身なりを定めさせられました。
1,托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の着物に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。
2,首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。
3,足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。
と、身につけるものを制定されました。

慶長19年(1614年)に成立したという『慶長掟書』(けいちょうじょうしょ)には、「武者修行の宗門と心得て、全国を自由に往来することが徳川家康により許された」との記述があるようです。
しかし、実際は原本が徳川幕府や普化宗本山である一月寺、鈴法寺にも存在しないため、偽物の書物ではないかと疑問視されています。

と申しますのも、罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒(ゆうとうぶらいのと)、すなわち、決まった仕事に就かず、お酒や女性遊びにふけり、その結果として素行が悪く、無法な行為をし、その人々が見せかけの虚無僧(こむそう)姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧(こむそう)を規制するようになった経緯があったのです。
その打開策として、『慶長掟書』(けいちょうじょうしょ)なる偽物の書類を作り、ニセ虚無僧(こむそう)が全国を自由に往来出来るようにしたのではと推測されます。

明治4年(1871年)になると、明治政府は幕府との関係が深い普化宗を廃止する法礼を出し、虚無僧(こむそう)は僧侶の資格を失うと共に、民籍に編入されましたが、明治21年(1888年)に京都東福寺の塔頭の一つ善慧院(ぜんねいん))に明暗教会が設立されて、虚無僧行脚(こむそうあんぎゃ)が復活いたしました。

虚無僧

一般に、虚無僧(こむそう)を思い描くのが、時代劇における虚無僧姿ではないでしょうか。
江戸時代らしさを演出する市中・街道の通行人の中に、深編笠で素顔が見えない点を生かして、暗殺者や隠密、武士が本当の身分を隠して行動する時の姿として登場するのです。
尺八を鳴らしながら近づいてきた虚無僧の一団が、すれ違った瞬間に襲い掛かるといった場面が典型的であります。
また、自宅に訪れた虚無僧への喜捨を断るときには「手の内ご無用」と言って断ったそうです。
だからと言って、この智慧をもじって、お盆参りに私どもが出向いた際、「手の内ご無用」と申されては、泣いてしまいます。
くれぐれも、受け入れを宜しくお願い致します。

 

住職

行脚(あんぎゃ)

≪行脚の由来≫
僧侶は修行や布教のために全国各地を回っていました。このように各地を歩き回る僧侶のことを「行脚僧(あんぎゃそう)」と呼びました。
最初はその僧侶の修行のみを指す言葉でしたが、一般にも広く浸透し、何らかの目的や意義のために歩くことを「行脚」と呼ぶようになりました。
昔は移動手段を徒歩のみと定めておりましたが、車やバスなどの交通手段を用いることも良しとされるようになったようです。また、読み方も、行脚を普通に読めば、ギョウキャクとなりますが、この場合アンギャと読みます。

そもそも漢字は仏教と共に中国から日本に入ってきた文字です。
そのため、漢字には中国からの伝わってきた読み方がもとになっている感じも多く残っております。それに加えて、日本で生まれた読み方も出来ましたので、一つの文字に行くとおりの読み方が混在しているのが今の漢字の読みとなります。
行脚の「あん」は音読みの一種で、平安時代中期以降から江戸時代末期にかけて入ってきた漢字の読み方だと言われているそうです。このような読みのものを「唐音(とうおん)」といいます。
唐音は他の音読みのようにすべての漢字に共通する読み方ではなく、特定の言葉のみに使うのが特徴です。

「行」を「あん」と読む言葉を思い浮かべると「行燈(あんどん)」や「行火(あんか)」など今では使われなくなった代物の名前が上がります。
玉川大学教育博物館の説明によりますと「あんどん」と読むのは、室町時代に禅宗の僧侶が好んで用いた唐音によると書かれています。
やはりこの「行」の文字一つ取りましても、室町時代の話にまでさかのぼる奥深さに驚きを隠せない歴史を垣間見させていただきました。

こいのぼりの歌

5月はこいのぼりが風になびく姿を目に致します。
子どもの誕生を愛でるご家族を想像し、笑顔が出てくるものです。
今は住環境や管理の難しさから大きなこいのぼりがあげられている家は少なくなったようです。
また、風になびく際の音がご近所の迷惑になるとトラブルを避けるために縮小傾向にあるようです。

でも、時代がどんなに変わっても、こいのぼりの歌だけは不変です。
中国において、黄河の竜門という滝を鯉が登っていく鯉の滝登りがもととなり、鯉が滝を登りきると、竜へと変化する神話から「登竜門」という言葉の語源にもなった事柄です。

小さなお堂

こいのぼりの一番の歌詞は皆さんもご存じのことでしょう。
大きなこいのぼり(真鯉)をお父さん、小さなこいのぼり(緋鯉)を子どもたち(男の子)と見立てています。
現在の鯉のぼりの色や大きさは、一番大きい鯉のぼりが黒色で、その次が赤色やピンク色、小さいのが水色や緑色をしています。

しかしながら、そもそものこいのぼりは、江戸時代までは黒い真鯉だけだったのです。江戸時代の武家では男の子が生まれると、家紋がついている幟(のぼり)を立てて祝っていました。
その習慣が庶民にも広まって幟の代わりにこいのぼりを飾るようになったようです。

昭和時代中期には青い緋鯉が加わり、真鯉はお父さん赤い緋鯉はお母さん、青い緋鯉は子どもたちに見立てられるようになりました。
当時の日本は武士階層で定着した「家父長的家」の精神を近年まで引きずっておりましたので、大きな鯉がお父さんという概念は当時としては当たり前のことだったのです。 そんな時代背景を持つこいのぼりの歌ですが、2番もあります。

やねよりたかいこいのぼり  おおきいひごいはおかあさん  
 ちいさいまごいはこどもたち おもしろそうにおよいでる

また、2番別バージョンの歌詞もあります。

みどりのかぜにさそわれて  ひらひらはためくふきながし 
 くるくるまわるかざぐるま  おもしろそうにおよいでる

最後に3番は。

ごがつのかぜにこいのぼり  めだまをちかちかひからせて 
おびれをくるくるおどらせて  あかるいそらをおよいでる

ほかにも以下のような歌詞が存在しています。

やねよりたかいこいのぼり  おおきなおくちにかぜのんで 
 ごがつのおそらにげんきよく  あおいおそらをおよいでる

弘円いわく 我が家が今、こいのぼりを作るとしたら、一番上の鯉は「奈保美鯉」やね! 何より恐ろしくて威張っとる。と、申しておりました。
「そうだ!そうだ!」と私は弘円に拍手を送りました。 ただし、心の中でしただけです(苦笑)

仏法僧(ぶっぽうそう)あれこれ

仏教では、「仏法僧(ぶっぽうそう)」を智り、考え、心がけましょうと説かれています。

仏法僧(ぶっぽうそう)は別の言い方で「三宝(さんぼう)」ともいいます。
この三つの宝で仏教が成り立っているのです。 仏教がある以上、その三つが常に揃っていて、逆に1つでも欠ける仏教はないといえます。 分かりやすく三宝を例えると、よく学校があげられます。学校には教師がいて、教える内容となる教科書があって、それを学ぶ生徒がいることです。
このように仏教も全ての要素が揃って、仏教が成立しているのです。

「仏」は、悩み苦しみから解放してくれる象徴的な存在の阿弥陀様やお釈迦様です。 「法」は、悩み苦しみから解放してくれるヒントとなり、心の持ちようの指針となる教えのことです。
「僧」は、悩み苦しみから解放されるために、同じ心で歩む仲間をさします。決して僧侶だけをさすものではありません。
仏教を守ってきた全ての先人の遺徳たちや、今、仏教を守り知ろうとしている人、全てを表します。 お仏壇に手を合わせ、お彼岸に先祖の霊を参るあなたも、仏教の心を持つ僧という宝なのです。
普段の生活でも、この「三宝」を意識して生活してみてください。日ごろ気づかなかった自分の中の小さな幸せに気が付くことができます。それを考え、教えに気づく機会の一つにお彼岸があります。

仏法僧
仏法僧

今回は冒頭で法曹界の衣から始まり、続いて「法」重なりで、仏法僧の話に持っていくという、私の安直な構成が垣間見られますが、安直ついでに、仏法僧がらみで、鳥に仏法僧という鳥がいることをご存じでしょうか。
いでたちは写真(右)のごとく青く、大変美しい鳥です。 古来より寺社仏閣の森で多く見られる美しい鳥であることから、霊鳥として大切にされておりました。

しかも、その鳴き声が夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえたものですから、仏・法・僧の三宝を象徴する霊験あらたかな鳥だと信じられてきたのです。
しかし、後に実際の仏法僧の鳥をよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった濁った音の鳴き声しか発せず、「ブッ・ポウ・ソウ」という鳴き声を直接聞くことが出来なかったため、この鳥の正体は長く謎とされてきました。
近年に学者が調査したところ、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴いているのは、あろうことか別の鳥であったことが判明したのです。
その鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクという鳥の声だったことが分かりました。

結局のところ、人の思い込みと勘違いで名付けられた鳥であり、 実際に「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴いていないにもかかわらず、仏法僧と名付け られてしまったという、いわく因縁の鳥なのでございます。
しかし、人をそのように信じ思い込ませてしまったのは、この鳥の美しさ ゆえかもしれません。全くもって、罪作りな鳥でございます。  

止め焼香(とめしょうこう)

過日、大阪の檀家様のところへご葬儀に行ってまいりました。その際に初めて、止め焼香(とめしょうこう)というものを目にしてまいりました。
こちら福岡では馴染みがないものの、関西圏では、一部の地域で風習がしっかりと残っているようです。
作法としては一般の親族焼香なのですが、焼香の順番に意味が隠されているようです。

作法としては一般の親族焼香なのですが、焼香の順番に意味が隠されているようです。通常は喪主が、代表焼香を致しますと、続いて親族が順番に焼香をして、一般焼香へと流れていきます。
それが止め焼香をする場合は、参列者全ての焼香が終わると、一番最後に止め焼香の方が一人焼香するという形になります。

その意味は諸説あり、一部の面白エピソードとしては、誰が喪主で、だれが一番に焼香するかで揉めたので、止め焼香なる配役を後付けして、その場をおさめたという逸話説もあります。
一番有力な説は、止め焼香をすることで、もう悲しみはこれで終わり、もう悲しみは続かない、という喪家の慰めもありますし、焼香がすべて終わったので、故人様に対して、あの世へ安心して旅立って下さいといういたわりもあるようです。

地方によって様々な風習や習慣が残るのも、冠婚葬祭に人々の思いが深いことの表れです。特にご葬儀は、この上なく悲しく、しかも時間との闘いとなるように決めないといけないことがたくさんあります。
それでも、故人様への愛情と感謝をもって執り行われる葬儀の意味は、深く有難いものだと思うのです。 今、泉福寺でも葬儀に対しての相談や質問が年々多くお問い合わせいただいております。

お戒名料はどれくらいの布施をしないといけないのか、永代供養の内容をもっと知りたい、子どもたちに迷惑や負担をかけないようにするには、あらかじめ何をしていたらいいのか等、様々なご質問を頂戴いたします。
ご家族構成や居住地等、お一人お一人の環境や状況が違いますので、もし何か気になることがございましたら、遠慮なくお問い合わせください。  

瞑想(めいそう)

瞑想は、日常のざわついた心を静めるために、目を閉じて呼吸を整えることにより自分を見つめ直す行為をいいます。
その起源は数千年前のインドにさかのぼり、悟りを開くための修行として行われていたようです。当然ながらお釈迦様も瞑想をして、悟りを得ようとしていたことはご承知のことと存じます。
日本にも仏教が伝来したことで瞑想の行為が広がるようになりました。
仏教では瞑想=座禅となるでしょう。

我が宗派の西山浄土宗では座禅を致しません。座禅に趣をおいた宗派と致しましては、禅宗系が多いのではないでしょうか。
禅では、「調身、調息、調心(姿勢が整えば呼吸が整い、呼吸が整えば心が整う)」とされ、人間の心が多層的な構造を持っていると考え、意識を深層段階へと到達させることを目的とした修行が確立したとのことです。

今日では瞑想の捉え方も多岐に渡っており、心を静めて神仏に祈る宗教的な行為を指すだけではありません。
目を閉じて呼吸を整える健康回復を目的とした行為など、目的によっても様々な捉え方や方法があるようです。

瞑想

人が生活している1日の活動を見てみますと、仕事や学校、家庭、地域など、四六時中頭を使って思考したり、身体を動かすなど、常に身心が緊張する状態が続きます。その緊張感を解きほぐす目的で、瞑想を取り入れる効能を推奨している方もおられます。瞑想により日中の思考し過ぎている頭を休ませ、ストレスを感じるような思考が減るとのことです。
その状況を表すように、脳波にも変化が表れるとのことです。通常物事を考えたり、様々な感情が動いたりする日中には、脳内にベータ波という脳波が流れています。しかし、瞑想を行うと思考の数が減っていき、身心もリラックスしはじめるので、脳波もベータ波からアルファ波に変わる脳内の仕組みが整うようです。

話が変わりますが、先日甲子園、夏の大会で優勝した神奈川の慶応高校の選手が、試合に行き詰まったり、流れが悪い時、マウンドに選手が集まり、全員で空を見上げることを常にしているとニュースで見ました。
これも勝利という一点を見つめる心のストレスを、大空を見上げることで緊張を解きほぐしているのかと、私なりに理解させて頂きました。
瞑想とまではいかなくても、無駄な力を抜き、肩を軽くするリラックスは瞑想に似ている要素を感じます。
また、決勝で敗れた仙台育英高校の監督の「人生は敗者復活戦」という言葉の力にも感銘を受けました。悔しさのエネルギーの矛先を次のステージにプラスとして持っていく智慧を感じました。
瞑想であれ言葉や考えの智慧であれ、どこにでも、いつの時でも、教えってあるのだなと、この夏に感じたものでございました。  

甘茶かけ供養

毎年4月8日は、仏教をお開きになったお釈迦様の誕生日とされる日です。
その誕生を祝して「花まつり」という仏教行事が執り行われます。
クリスマスが、キリスト教をお開きになったイエス様の誕生のお祝いの日ですから、「花まつり」は仏教版クリスマスと言えばわかりやすいでしょうか。
しかしながら我々は仏教徒であるにも関わらず、「花まつり」はクリスマスのように世間一般にあまり受け入れられてはおらず、大方の人が知らないというのが現状でございます。
愚僧も非力にて歯がゆいばかりですが、何とか浸透していくように日々努力している次第でございます。

そして、泉福寺では4月8日の旧暦に当たる5月の第2日曜日に「花まつり」を行っております。そこで登場するのが「花御堂」や「甘茶」です。

それ等をご説明するにはお釈迦様誕生の逸話を紐解く必要がございます。
「花まつり」と呼ばれるようになったのは、お釈迦様が誕生された時、誕生地であるルンビニー園に一斉に花が咲き乱れていたことによります。
その状況を表現する名残が小さなお堂を花で飾りつけした「花御堂」でございます。またお釈迦様の誕生の際、それを祝った龍が天から舞い降り、香油や甘露の雨を降らせたという神話から5色の香水や甘茶をかけることでお釈迦様の誕生を表現しているのでございます。

お釈迦様の誕生月日については2500年以上前のお話ですから、諸説もございますし、定かでもありませんが、日本では花が一番美しい春たけなわの頃ですので、4月8日にお祝いするようになった事が定着していったのは当然の流れなのでしょう。
ただ、お釈迦様が誕生した場所とされるルンビニー園は、現在のネパール南部にあり、釈尊生誕の地であることを刻したアショーカ王の石柱が出土した遺跡も発掘されておりますので、それは間違いがないようでございます。

そしてお釈迦様がお生まれになった時の有名な言葉の「天上天下唯我独尊」です。 「この大宇宙にあって唯一我々人間だけにしかできない尊い使命がある。」 その尊い使命を探し求めることこそが、お釈迦様の人生をかけて仏教を築き上げる旅となるのでございます。

王子として裕福な生活をしていながら、29歳で出家し、苦行を続けた後、35歳で悟りを開いたとされるお釈迦様が、80歳で亡くなるまでの間、口伝での布教をされ続け一生を終えました。
生まれて亡くなるまでの過程で、老いと病という二つの苦を体現したお釈迦様の一生が、人々の心に今でも教えとして受け継がれ、滅後2500年以上の年月が経ちながらも、仏教の法灯が絶えることなく続いている由縁なのだと思います。

小さなお堂

今年は久しぶりに世話人皆様と共に、甘茶の木から葉を摘むことから始まる手作りの「甘茶」を炊きます。
長い年月の仏教法灯の象徴である「甘茶」に皆様も触れられてみてはいかがでしょうか。泉福寺玄関入り口でお分け致しております。
お見えになられる際はペットボトル等の容器をご持参ください。お待ち申し上げます。  

阿弥陀様とお釈迦様のあれこれ

お釈迦様と阿弥陀様のお話しは、様々な仏教神話がございます。確
かにお釈迦様はこの世に存在し、生きていた実在の人ですが、遥かかなた昔の出来事を、その人の心理にのっとって今、記述することはかなり難しいことだと言えます。ただ、浄土宗の伝承の考えと致しましては、お釈迦様は苦しい修行の後、阿弥陀様の誓願を知ったとされております。

誓願とは人々を救い、極楽浄土に生まれ変わらせるという誓いです。
事実、経典の中には、お釈迦様は自身の修行中に、阿弥陀様の誓願や極楽浄土についての啓示を得たとされているのです。
この啓示を通じて、お釈迦様は阿弥陀様の存在とその教えについて知ることが出来たとされております。その啓示は阿弥陀様からのお声だったと確信されたのです。
それ故、お釈迦様の仏教の先生(師匠)が阿弥陀様になられるのです。
ただ、壮大な仏教の全容を一人の生きたお釈迦様という人物が描き切るには、超越的な想像力を持っても描き切れないでしょう。
それはひとえに阿弥陀様からの働きによるものとしか考えられません。

そして仏教が確立され、やがて人々に仏教が浸透していきましたが、当初は(原始仏教時代・仏教が出来たばかりの頃)には仏像というものがありませんでした。
ではなぜ人々は仏像を作ったのでしょうか?

世界で一番古い仏像は、諸説ございますが、現存する中ではインドのルンディアの仏像がその一つとして知られています。この仏像は紀元前5世紀頃のものであり、ガンジス川流域の古代インド文明に関連しているとされております。
そして、仏教には仏像を作る理由がいくつかあると考えられています。

小さなお堂

まず一つ目は、敬意の表現として仏像に祈りを捧げ、崇拝を表現する手段です。
仏のお力を目で見ることが出来ないもどかしさを、仏像という物体があることによって、信仰の対象として崇拝され、その前で祈りを捧げられる環境が整うのです。

また次に、視覚的な教育として仏像は教化の手段としても機能します。
絵や像を通じて、教義や教えが視覚的に伝えられます。特に文字の読み書きが出来なかった人が多かった時代においては、仏像を通じて仏教の教えや価値観が広まりました。

更に、瞑想や参拝の心の集中に役立つとされております。仏像の静けさや穏やかな表情は、参詣者が心を落ち着かせ、内面の平穏を見つめるのに役立つのです。
また別の角度を付け加えますと、仏像は芸術作品としても評価されます。
多くの仏像は高度な彫刻技術や美的感覚を示しており、芸術家や彫刻家の創造性と技能を示すものとして重要です。

総じて、仏教において仏像を作ることで信仰の対象としての 役割を果たすだけでなく、教育や内面心理、芸術の面でも重要視しています。

今は当たり前にある仏像ですが、古代の人々が仏教への思いを込めて作りだした仏像が、今も皆様を見つめお救い下さっておら れることをお感じ下されば幸いです。  

華籠(けこ)

散華(さんか) 一例

仏教を語るうえで、分かりやすく、親しみを込め、多くの仏教神話が方便として使われてまいりました。

その仏教神話の一つをお話いたします。
この世に仏様や如来様が功徳を施される際に、その功徳の喜びを称え、極楽世界に厳かに咲き誇る蓮の花々が降り注いできたという逸話がございます。

その仏教神話にのっとりまして、仏教儀式の中で、花を撒くという意味の「散華(さんか)」と申す所作がございます。
通常執り行われるご法事やご葬儀で成される所作ではございません。泉福寺のような一般寺院では、本堂の新築による落慶法要(らっけいほうよう)や、新しい住職を迎える晋山式(しんざんしき)等の大きな節目となる法要で行なわれます。逆に京都光明寺の本山では、様々な法要において、高僧により、ありがたく、厳かに散華を撒かれてご供養がなされております。

その散華は華と書くように、昔は本物の生花を撒いていたのですが、今ではそのような形式をとっているのは、インドやネパールのみとなり、ほとんどの仏教国では蓮の花弁を模した紙の物を用いております。その紙の散華には、仏像、折々の花、お経文字等、様々なデザインのものがございます。

この頃はコロナ蔓延(収束の兆しはあるのですが・・)に伴い、今はなかなかお目にかかれませんが、一昔前の様々な旅行で、大法要参列をコースに取り込んでいるツアーでは、その散華を慶賀の証として集めるコレクターがたくさんいらっしゃいました。
特に奈良薬師寺でご供養される散華は人気中の人気らしく、ネットでは、高値で売買されるようです。何でも、「平成の宝玉散華」と銘打って、名高き邦画家様に絵を施して頂いているそうで、希少価値の物だそうです。とは申しましても、世の中の流れとはいえ、そのようなありがたいものが売買の対象になるとは、この世は変わってしまったものです。

本来の散華をする所作の意味は、華の香により邪気を払い、本堂内を清めると共に、本来はあると心で信じていながらも、決して目にすることはできない仏様のお智恵や慈悲の功徳を、散華に思いを重ね合わせ、その功徳を人々に降り注がれることを体感ができるように設えた所作なのです。


華籠(けこ)一例

そして、その散華を入れる器(皿状の物)を、華籠(けこ)と申します。これも昔は、籠と文字を用いるように、竹や蔦を編んだ簡素なものでした。最古のものと言われておりますのが、正倉院に竹製の物が保管されております。現在の多くは金属製の物に、金箔を施したものがほとんどでございます。

やはり大法要で使う仏具となってきたので、仏具としての格が上がり、金箔等での装飾となっていったのでしょう。その器の縁に三ヶ所の紐が付けてあり、その紐の取り扱いにも、厳しく定められた所作がございます。

当山泉福寺で、いつの日かこの愚僧と、弟子の長男弘円が交代する晋山式で、華籠に入れた散華を撒く、そのようなめでたい日が来ることがあれば、どうぞその時はご参詣下さり、散華をお受け取り下さい。 その日はまだまだ先の事のようにも、近い日の事のようにもと、思いめぐらすのであります。

彼岸花・ひがんばな (別名 曼珠沙華・まんじゅしゃげ)
彼岸花・ひがんばな

仏教経典(法華経←他宗教にて目にしたことはありません)に曼珠沙華と出てくるそうですが、その花は「天空の花」「天界の花」とされ、空想の花です。
実際の彼岸花の別名が曼珠沙華になったのかは、今現在の調べでは定かではありませんでしたが、天に向かって反るようにして立ち上がっている花弁の姿が天空の花とイメージが重なるのではと考えております。

時期を誰かが教えたはずもないのに、秋の彼岸に一斉に真っ赤に咲き誇る姿は、人々の目を奪います。
特に田畑の畔に列をなす姿は、しみじみと秋の到来を感じさせてくれるものです。
そもそも日本列島には彼岸花が自生しておりませんでした。しかし、稲作と一緒に中国から持ち込まれ、日本全域に広まったとされております。
当時から彼岸花の性質を熟知していた人々は、彼岸花の特性を自然の中に生かして、必要なところに植え付けておりました。
彼岸花にはアルカロイドという毒があり、モグラの餌となるミミズがその毒を嫌い近寄らない為、結果モグラが少なくなるようです。

また当時の墓地は土葬の為、動物が掘り起こすことを防いでくれました。
更に有毒性の植物は年貢の対象にはならないので、田畑に大量に植え、救済食として、保存確保していたようです。
但し食べる為には、毒抜きが必要で、長時間水にさらす必要があります。
近年では彼岸花の毒成分の一つである「ガランタミン」という成分がアルツハイマー病の治療薬として利用されているそうです。

生育方法は、まず花が咲き、花が終わると葉が出て、春に葉が枯れる事を繰り返し、決して花と葉が同時に生育することはありません。
それ故、俳句の季語と致しましては「花は葉を思い、葉は花を思い」という意味で「相思愛」の意味合いを持ちます。

因みに季語繋がりで申しますと「お彼岸」という季語は、俳句の世界では「春彼岸」のことを指し、中日や彼岸前も同じく春の彼岸を示したものとなります。
秋の彼岸を用いる場合には、あえて「秋彼岸」と使わないといけません。

ここで一句・・・・・・   ・・・・あぁ~出てこない

「まつり」あれこれ

前頁掲載・泉輪「終息の決意」の内容で「まつり」と単語が出てきたと思います。
 あえて「まつり」とひらがな掲載と致しました。
 今回のお寺豆知識ではこの「まつり」について掘り下げてみたいと思います。

「まつり」と言われてすぐに思いつきますのが、神社の縁日やおみこし担いで「わっしょいわっしょい」ということでしょうか。
お寺での「まつり」は、お位牌を「おまつり」する。ご先祖様を「おまつり」する。このような言葉を多く使います。

では実際に使う文字をご説明致しましょう。

◆「祀り」は、神・仏に祈ること

祀りが、祈りに通じることから神職や僧侶などが行う「祈祷」や「神仏との交流行為」を示します。祈る行為はやがて神楽(かぐら)や獅子舞など、広く親しまれる地域信仰を育むこととなります。
  また、手を合わせ日々の感謝を祈りの場所として、祀り塚や地蔵尊を建立する背景があった。

◆「祭り」は御霊(みたま)を慰めるもの

「祭」は、中国から漢字が入ってきたときは当初の意味は葬儀のことのみを示していた。日本仏教が確立してくると先祖崇拝が始まり、お盆法要等が祭りの本来の意味として使われるようになった。

◆「奉り」は、奉る(たてまつる)とも読み、献上や召し上げる事

最初は朝廷や公家に対する献上行為のみを指していたが、やがて意味合いが広がり、収穫の感謝から、この世の収穫のお礼の意味を込め、神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還した。
 このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なりわい)から、現在の醸造や酒造など職業としての神事や、地鎮祭や上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。

◆「政り」は、字の如く政治のこと

古くは卑弥呼なども祭礼を司る巫女や祈祷師であり、祈祷や占いによって執政した。
 平安時代には陰陽師が役職を得て官僚として大きな勢力を持ち執政した。
 また一般市民にもその行為は浸透し、その年の吉凶を占う「祭り」が誕生した。

漢字の持つ本来の意味には違いがあるものの、現代の一般社会ではおおむね同じ意味合いが重ねられ、賑やかさには「祭り」、神仏にかかわる行為には「祀り」、奉納する行為には「奉り」を使い、「政り」は、ほとんど使われなくなりました。

泉福寺水祭り(みずまつり)

【質問】 今更お聞きしにくいのですが、水祭り(みずまつり)って何ですか?

【回答】 水祭りは、泉福寺及び鐘崎の風習からできた呼び名です。
法事の後、鐘崎の檀家様は 必ず納骨堂参りをされるので、その際、納骨堂裏の水かけ地蔵にお水供養として水をかける行為から、納骨堂参りを「水祭り」と呼ぶようになったと思われます。
水祭りの際、納骨堂には、仏膳(ご飯・汁物・香の物・向付・煮物)を供え、お持ち頂いた 団子を供えてご供養致します。

では、なぜお地蔵様に水をかけて、ご供養するのでしょうか。
これはちょっと時季が違う法要ですが、夏に執り行われる「施餓鬼法要」が関係しております。

その昔、お釈迦様の弟子で阿難尊者が餓鬼に会い、その餓鬼の供養をしたという施餓鬼法要の始まりとなる仏教神話があります。
またもう一つ、同じくお釈迦様の弟子で目連尊者というものが、地獄に落ちた母を救うべく九十日間の修行をし、終えた七月十五日に、ご馳走を用意して読経し、目連の母親は餓鬼の苦しみから救ったという仏教神話もございます。これがお盆法要の起源とされています。
この2つの話が混同され、鎌倉時代から多くの寺院においてお盆の時期に合わせて施餓鬼法要が行われるようになったといわれております。

そのどちらの仏教神話にも出てくる供養の際に、地獄の一つである餓鬼の世界に水を届けようとするのですが、単に水を供えても、地獄の炎であっという間に煮えたぎり蒸発して供えることが出来ないと言われております。
ただし、水を届けることが出来る唯一の窓口があり、それが水かけ地蔵の下にあると言われているのです。
その仏教神話を基に、単にお地蔵様に水をかけているのではなく、ご先祖様が地獄に落ちないように、併せて私どもが地獄に落ちないように、水をかけ、自分への戒めと、ご先祖様のご供養とを同時に致しているのです。

泉福寺水祭り

また、仏教神話の口伝えは、各家々で話のアレンジが違ってくるのも面白みの一つです。加えて、水の掛け方も、お家によって方法は違い、勢いよくかけるご家庭や、頭の上からそろりそろりかけるご家庭など、様々です。年配の方が、子や孫に伝来していくそれぞれの行為も、家族の絆や繁栄をもたらすことに繋がり、目に見えない仏縁による育みをもたらせることもあり難いものと感じております。

【追伸】 お水を使いましたら、蛇口は締めて、お帰り下さい。宜しくお願い致します。

雪隠(せっちん)

紅葉の季節となってまいりました。
長男が只今修行致しております「総本山光明寺」も紅葉寺として有名ですが、京都市内にございます臨済宗大本山・東福寺も見事な紅葉寺でございます。

その東福寺には、室町時代からございます、日本最大最古の禅宗式の東司(とうす・便所)がございます。多くの修行僧が一斉に用を足すことから百雪隠(ひゃくせっちん)とも呼ばれているようです。

東福寺の雪隠(せっちん)の内部にはたくさんの穴が等間隔にあいており、それぞれに壺が設置されていました。
右側が小便用、左側が大便用と分かれており、お坊さんたちはそこに用を足したのです。
禅寺では、トイレに行くのも修行のひとつで、ひとたびトイレを使うとなると、仏典のなかの仏の教えや菩薩の徳を讃える偈文(げもん)を唱えなければならない上に、入る前に衣服を脱いで、人の服と間違えないように紙に自分の記号を書くなどの厳しい作法や決め事があったようです。

禅宗ではトイレに行くのも至難の業ではなかったのでございます。

雪隠イメージ

そもそもトイレのことを何故雪隠(せっちん)というようになったか調べてみますと、諸説あるものの、宋(そう)の禅僧で、竇重顕(せっちょうじゅうけん)と申すものが、杭州(こうしゅう)の霊寺(りんにんじ)で、自分の身分を隠して浄頭(ちんじゅう)・(便所を掃除する役職)の任にあたっていたため、雪隠(せっちん)とよばれたと言われております。

何はともあれ、人類が誕生した時から、当然人間が生きているのですから、排便を致します。動物のように、決まった場所にしない生き方から、同じ場所に排便をするようになったのは、縄文時代早期からで、川に直接用便する「川屋」と呼ばれるものが最初でございます。その後、鎌倉~江戸時代になると、糞尿は貴重な肥料(=下肥〔しもごえ〕)となり、貯糞汲取り式便所が主流になりました。
明治時代以降は、文化の欧米化が進み、一部の上流階級の人には、建築にも洋風の様式が取り入れられていったため、この頃に初めて腰掛式の洋風便器が造られ、すぐ後には水洗式の便器が輸入され始めたようです。

時は流れ、昭和に入ると和式便座から様式便座へと主流が変わり、下水道の完備も後押しし、昭和の終わりには様式便座が主流となったのです。

丁度その頃、TOTOの「おしりだって洗ってほしい」のCMが話題になりました。
世界で初めての温水洗浄便座の認知を広めるきっかけとなり、衛生面を極めた日本独自のトイレ文化が確立されたのです。
今では、勝手にトイレのふたが開閉し、勝手に水が流れ、気温を感知し便座が適温に温められ、機能も衛生面もデザインも多様化極まりなくなったのです。

どこのご家庭にもありますトイレの歴史ではございますが、そこに仏教の修行根底が流れておりますことをお分かり頂けましたならば幸いでございます。

本山御忌法要
誌公帽子イメージ

浄土宗をお開きになった宗祖・法然上人は、建暦二年(1212)1月25日に、八十年のご生涯を終えられました。
毎年4月、法然上人のお念仏の教えを受け継ぐ全国の僧侶が、法然上人のご命日に対し、一般の人でいう年回(法事)の回向を、総本山光明寺でお勤めする法要が「御忌(ぎょき)」であります。
その際に、読経の中心的役目となるのが「講讃導師(こうさんどうし)」です。
講讃導師は、この「御忌」で管長猊下の名代として、法然上人の高徳を讃える重要なお役目です。今年この講讃導師を、古賀の谿雲寺ご住職様が勤められました。

西山浄土宗の最も偉いお坊様は、光明寺管長でございますが、その管長猊下の代務として講讃導師になった方は、「歎徳之疏(たんどくのしょ)」を読み上げます。
その「歎徳之疏(たんどくのしょ)」は浄土宗を開かれた法然上人の半生が述べられております。産簿声をあげた時から、父親が夜襲に会い殺されたこと。その際の父親が残した言葉を人生の指針とし、比叡山で修行したこと。
その後、お念仏の尊さを智り、浄土宗をお開きになるまでの全ての経緯が書かれているのです。そんな大事な文暦が「歎徳之疏(たんどくのしょ)」でございます。

誌公帽子イメージ

そんな重要な文暦を述べる講讃導師は、本山御忌における一日管長であり、重要な役目でもあり、檀信徒の皆様に於かれましても大変名誉なことなのです。
追伸 その古賀の谿雲寺様のお付きの小坊主 【侍者(じしゃ)】として、長男弘円が法要に参列する光栄な機会を頂戴いたしました。

本山ついでの話(涙無くしては語れません)
泉福寺が本山に参拝する機会が多いことは当然ながら、その際、寺族(家族)も同行することが多いのです。
当然、我が家の子供たちも何度も本山に足を向けております。 ある法要で参拝した際、落ち着きのない当際の4歳の三男萬斎が、本山内で迷子になり、そこで見つけた僧侶に「おい!じいちゃん!トイレどこか?」と生意気に声をかけ、教えて頂き、別れる際に、「おいじいちゃん!お前も頑張れよ!!」と、大声で言ったとかで、その話した相手とは、まさかの光明寺管長猊下、その方だったのでございます。
その無礼様に「お前はどこの子供か?」の質問に、「じいちゃん俺のこと知らんと?教えちゃろか?」の会話が続いたとか。
いまだその話は本山内で語り継がれ、泉福寺は何の名跡よりも、泉福寺にはとんでもない子供がいると、伝説話になっているそうな・・伏して号泣

今さら平成の意味

新しい元号は、『平成』であります。 — 内閣官房長官(当時) 小渕恵三— 
この言葉に始まった平成時代でございます。
そして来年その平成が31年の幕を閉じるのです。

内閣官房長官(当時) 小渕恵三—
内閣官房長官(当時) 小渕恵三氏

1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御して、その翌日を「平成元年1月8日」とすることにより改元がなされましたことはご承知のことと存じます。
継宮明仁皇太子(つぐのみやあきひとこうたいし)は今上天皇陛下(きんじょうてんのうへいか) となられました。 

その、「平成」の名前の由来は、中国古代の歴史書である『史記(しき)』の「内平外成(内平かに外成る)」、という言葉と同じく中国古代の歴史書である『書経』(しょきょう)に記載されている「地平天成(地平かに天成る)」の両方の文言により、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味であるそうです。

小渕内閣官房長官(当時)が総理大臣官邸での記者会見で使用した台紙に『平成』と文字を揮毫したのは、河東純一氏だそうです。
その方の役職は、内閣総理大臣官房人事課辞令専門職とのことで、辞令を認める役目なのでしょうか・・

記者発表の僅か20分ほど前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され、新元号名を知った河東氏は、自らが用意した4枚の奉書紙にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボールと風呂敷で梱包の上、小渕内閣官房長官の元へと運んだそうです。
河東氏本人談として、初めて平成と知った時、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうです。

また、4枚目を選んだのは上手い下手に関係なく、初めから4枚目を提出するつもりだったとのことも申されたそうで更に、墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められており、同室では数人が別の作業を行っていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書き上げたとのことです。
作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったと、後に感想を述べられたとのことです。
その「平成」の奉書紙は、平成改元時の内閣総理大臣であった竹下登氏に贈呈され、竹下元首相私邸に飾られていたが、現在は国立公文書館に寄贈されているそうです。

曼陀羅(まんだら)

まんだら/曼陀羅とは、直訳は「聖なる尊格が集う場」のことを意味し、その様子を画布の上に様々な尊格や特定の図様を並べたものを「曼陀羅」と呼ぶようになりました。
浄土宗においても浄土の功徳荘厳の様子、すなわち極楽浄土の様子を「浄土曼陀羅」として描くようになりました。
その、根源となったのは、法然上人の高弟子であり、後に西山浄土宗をお開きになられた流祖西山上人と、當麻曼荼(陀)羅(たいま まんだら)との出会いから始まります。當麻曼荼(陀)羅(たいま まんだら)とは、奈良の當麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼(陀)羅の図像に基づいて作られた浄土曼陀羅の総称であります。

1229年、西山上人は、奈良當麻寺に参詣して『當麻曼荼羅』を拝観しました。
このとき、この曼荼羅が観無量寿経の図案化を意味していると一目で見抜き、その意味深さを多くの人々に口伝することが重要であると確信し、以後その流通に努めたのでありました。
流通させる最大の目的は、善導大師が勧めた観無量寿経の意義を法然上人は、念仏往生をもって魂込めて広めましたが、更に西山上人は、文字の読めぬ人々にでも理解してもらう方法として、描かれている曼陀羅絵の絵解き(解説)する方法で広めようとしたのです。
経典に綴られている難しい意味合いを、その曼陀羅を絵解きするために、西山上人自身も曼陀羅図を描き、それを各地のお寺に奉納しました。
更に、その弟子達も同じ方法をもって説法し、阿弥陀仏の救いの意味を広めていったのでした。
この新しい伝導法は、仏教の布教の手段として考案された当時としては斬新で、画期的な方法であると同時に、その絵解きの方法が一般の人々に受け入れられることにより、人々と僧侶の距離を近づける「コミュニケーション」を深めるものでもあったのです。
西山上人が参詣されて當麻寺(たいまでら)は、七世紀に建立したもので、そのお寺には藤原家の郎女・中将姫(ちゅうじょうひめ)さまの尊い物語が伝わっています。

當麻寺 綴織當麻曼荼羅 
當麻寺 綴織當麻曼荼羅 (国宝です)

中将姫さまは、天平19年(747)藤原豊成の娘として奈良の都にお生まれになりました。姫さまは幼き頃から観音さまを篤く信仰されました。4才の時には『称讃浄土経』と出会い、幼少の頃からこの経典を諳(そら)んじていたといわれています。
しかし、5才の時に母を亡くし、豊成が後妻を迎えると、その継母に妬まれるようになり、次第に命さえ狙われるまでになります。周囲の助けで命を長らえながらも、あえて継母を恨むことなく、14才の時、雲雀山へ逃れ、読経三昧の隠棲生活を送られました。
やがて、隠棲生活から晴れて都に戻った姫さまは、『称讃浄土経』の写経を始められました。毎日欠くことなく筆をとり、経典を書き写し続け、千巻の写経を成し遂げられた16才のある日、太陽の沈みゆく西の空に神々しい光景を見たのでした。
夕陽の中には阿弥陀仏が浮かび上がり、夕空一面に極楽浄土の光景が広がったのです。その光景に心を奪われた姫さまは、あの夕陽の中に見た仏様にお仕えしたいという一念で都を離れられます。
そして、観音さまを念じながら姫さまはひたすら歩かれました。

やがて、観音さまに手を引かれるかのようにたどり着いたのが、夕陽を象徴する山・二上山の麓だったのです。 そこに當麻寺がありました。
当時の當麻寺は男僧の修行道場であり、女人禁制でした。入山が許されなかった姫さまは、門前にある石の上で一心に読経を続けられました。
数日後、不思議なことに、その石には読経の功徳で姫さまの足跡が刻まれました。その奇跡に心を打たれた当時の當麻寺の住職・実雅和尚は、女人禁制を解いて姫さまを迎え入れたのでした。この時の霊石は「中将姫誓いの石」として、現在、中将姫剃髪堂の横に移されています。
翌年、剃髪の儀が執り行われました。天平宝字7年(763)6月15日のことです。姫さまは法如(ほうにょ)という名を授かり尼僧となられました。

泉福寺の曼陀羅掛け軸
泉福寺の曼陀羅掛け軸(国宝などではございません)

翌16日、法如さまは前日剃り落とした髪を糸にして、阿弥陀さま、観音さま、勢至さまの梵字(ぼんじ)を刺繍します。そして、かつて夕陽の中に見た阿弥陀仏の姿と、夕空に広がった浄土の姿を今一度拝ませて欲しいと一心に願われました。
 その想いに「み仏」がお応えになります。翌17日、一人の老尼が 現れ「蓮の茎を集めよ」とお告げになりました。その言葉にしたがい、父・豊成公の協力を得て大和のほか、河内や近江からも蓮の茎を取り寄せたところ、数日で百駄ほどの蓮茎が集まりました。
そして、再び現れた老尼とともに、蓮茎から糸を取り出し、その糸を井戸で清めると、不思議にも五色に染め上がったといいます。
22日の黄昏時、ひとりの若い女性が現れ、五色に染まった糸を確認すると、法如さまを連れて千手堂の中へ入ったのでした。

三時(みとき)の時間が過ぎた翌23日。 法如さまの目の前には五色の巨大な織物ができあがっていました。そこには、法如さまがあの日の夕空に見た輝かしい浄土が表されていたのです。
それが国宝・綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)です。老婆は母の化身だったのでしょうか、現れた女性は阿弥陀様の成り代わりのお姿だったのでしょうか。興味深い伝説です。

本堂の畳

お寺の建物で一般的に一番大きな建物は本堂です。
泉福寺の本堂も同様で、その大きさは畳94畳です。今まで測ったことはなかったのですが、改めて測ると94畳もあるのかと今更ながら驚いております。
その本堂に引き詰められていますのが、ご存知の通り「畳」でございます。
畳という住空間の素材としての名称でもありますが、本堂の広さが94畳というように、広さを表す単位でもあります。

その畳の歴史でございますが、意外にも古く、その原型は古事記にも記載され、現在の形に似た様式になったのは奈良時代の様です。
 そもそも、島国である日本という国は、大昔であれば技術改革が他国に比べて遅く、とかく朝鮮や中国からの影響で、文明開化をしてまいりました。
それ故、近隣諸外国の伝来のものが多いなかで、畳だけは日本固有の敷物、床材なのでございます。その歴史は「菅畳八重」「皮畳八重」などの記述がある古事記に記されており、但し、まだ畳床などというものではなく、コモなどのゴザ状の敷物を重ねたものと推測されております。
 現在の畳に似た構造になったのは平安時代でございまして、板敷に座具や寝具として置くという使い方で、使う人の身分によって畳の厚さやへりの柄・色が異なるばかりか、一般の民が使用することなどありえない高価なものでした。

泉福寺本堂の不祝儀敷き畳
泉福寺本堂の不祝儀敷き畳

鎌倉時代から室町時代になると、建築様式が書院造となり、部屋全体に畳を敷きつめる使い方が発展しました。
 それまでは高貴な身分の人や、客人のもてなしのためのものでしたが、建物の床材として利用されるようになったのです。
 しかしそうした使い方も貴族や武士の富の象徴です。
 桃山時代さらに江戸時代に至るなかで、数奇屋造や茶道が発展して普及し、徐々に町人の家にも畳が敷かれるようになりました。

やがて、明治時代に入ると、それまでは畳の柄などに規制がかかっていましたが、それが解除され、明治維新後に一般社会に畳は広く伝わっていきます。
 畳を干して痛むのを予防するため、畳の表がやけてしまうと裏に返して使うなどの知恵で大切に使われ、日本人の「もったいない精神」が象徴される知恵を育む場面が見受けられるようになりました。

その後、近年の研究では、イグサの性質分析が行われ、イグサには木炭に匹敵する吸湿能力があり、湿度が高い時は無数の気孔から湿気を吸い取って中にたくわえ、また部屋が乾燥してくると、スポンジのような内部にたくわえた水分を放出し、空気の湿度を調節していることが判明いたしました。  
 例えば6畳の部屋にイグサを敷き詰めた場合、約1.8リットルの水分を蓄えることができるとのことでございます。
 高温多湿の日本の暑い夏にべとつかずにさらっとさせてくれる効能に、ことさらながら素晴らしい素材と感銘致しました。

また、日本人特有の風習好きと申しましょうか、何でも意味合いを持たせる精神にのっとり、畳の敷き方にも、様々な理由を用いるようになりました。
特に江戸時代からは「祝儀敷き」と「不祝儀敷き」とに分けられて、祝儀敷きはまさに吉の敷き方とされてきました。
 昔は、畳はとても大切なものでしたので、普段は重ねて置いておき、祝儀や不祝儀があると部屋に畳を敷き、そのときの状況に合わせて敷き方を変えていました。
祝儀敷きは一般的にどこのが家庭でも見受けられる畳の敷き方で、祝いことがあったときにこの敷き方をしました。
 出入り口の畳の向きに注意し歩きやすいように敷き詰めることは勿論のことですが、畳の角が交わって十字になることを忌み嫌い、このような理由で「祝儀敷き」になったともいわれています

それに反して「不祝儀敷き」は、不幸があったときに敷く敷き方です。
2枚以上の畳を並べて平行に敷く方法で、畳の角が交わって四辻になるために縁起が悪い敷き方とされてきました。
 現在では一度敷いてしまった畳を行事ごとに敷き変えるということはしなくなりましたし、この敷き方をしているのは、寺院や旅館などで和室の大広間を持っているところは不祝儀敷きになっています。

昔から意味合いをもたらせていた畳の敷き方もさることながら、現在では、不祝儀敷きに敷く方が、広く見える視界錯覚を引用しあえて不祝儀敷きにすることや、一定方向に畳が並んでいることで掃除がしやすいという利点から、大広間はこの式方を用いているようでございます。
 決して不幸を呼ぶ畳の敷き方等ではございません事をご了承ください。

煩悩・貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)

人間が持ち続け、払いのけようにも、消し去ろうにも無くならないのが「煩悩(ぼんのう)」です。
その煩悩を多く抱え込み過ぎるが故に、心を乱し、不幸なことを作り出しているのが人間社会です。ご存じのとおり、除夜の鐘の数で表されているように、人間の煩悩は108つあると言われております。その中の煩悩の中でも代表格となるのが貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と言われております。
これを仏教では「心の三毒」と苦言しております。

•貪(とん):むさぼり・必要以上に求める心
•瞋(じん):怒り・憎しみ・妬みの心
•痴(ち):おろかさ・愚痴・無知

私ども人間は、自覚はあまりしていないのですが、三毒によって不幸を受けるのは、それを起こしている自分自身です。
実例で申しますと、自分の価値観だけが正しいと、自分の器の小ささを棚に上げ、喧嘩ばかりをし、周りの人を悪く攻めたてるばかりの方の人生は、結局は、友人が誰一人出来ずに独りぼっちです。お寺の掲示板をご覧になられている方はご存知かと思いますが、 『いい友だちがほしかったら、いい友だちになりなさい』と記されております。

勿論、愚僧の私が認めたものではなく、学識ある高僧によるお言葉です。
その言葉が示しているように、結局は求めるなら、願うなら、自分が変わらなければならないのです。そして自分の愚かさに気づかねば、常に周りの人に毒づくばかりで、悪循環の負の連鎖を断ち切ることはできないのです。
人生が長ければ長いほど、身に着けた己の価値観の鎧は厚く重たくなっております。中々その鎧を下ろすことは容易には出来なくなっているでしょう。

でも、人は努力があれば変われます。成長するチャンスはいくらでもあります。
4月になって新入学の小学生、中学生、高校生、社会人、どの世代の子には、板についていない身の回りのものが新しい故に頼りなく、か弱く感じます。でも前に進んで歩む姿のすがすがしさは、見ている大人を何かの時期に引き戻す程の、秘めたエネルギーが感じられます。
そのエネルギーにより、自分の子供が入学したてのおぼつかなさや、ご自身の入社したての意欲有り余る故の空回り感等、どこか甘酸っぱさと共に思い出されるものです。

そんなたわいない4月5月の風景でさえも、若人に新鮮な一生懸命さを私どもに学ばさせてくれているのです。 春の季節の喜びの中で、自分自身も人に喜ばれる人でありたいと、欲深な煩悩を抱えつつもそう思う季節でございます。

天皇陛下と勅使門(ちょくしもん)

過日、10月に天皇皇后両陛下がここ宗像市にお見えになると話を耳にしたのが、去年の夏のことでした。世間に疎い私のことですから、実際はもっと早く情報が持ち上がっていたのかもしれません。しかも、田舎の宗像市といえども、それなりの広さがあるわけでございまして、どこの場にお見えになるかと聞いてみますと、ここ鐘崎というではないですか。
私自身は、半信半疑でしたが、あちらこちらで工事が始まり、新しい道はできるは、上八(こうじょう)の交差点が、五差路のロータリーになる等、世の中が確実に動いていったので、これは、天皇皇后両陛下がお見えになるのは間違いないことだと納得致しました。一生に一度は、お目にかかりたいと願ってみても、そう簡単にお会いできるわけでもなく、テレビで拝見させて頂くことが関の山と考えていたものですから、少し興奮して、家族で話をしたものです。三男萬斎に限っては、両陛下がお見えになる日は、一切家を出るな、でないと、ガチャガチャ両陛下の周りをうろつくと逮捕されるぞ、など妄想話に花を咲かせたものです。
また各方面の担当者が鐘崎漁港でなにがしかのお仕事をなされ、やたらと警察の方を目にするようになり、時に昔の「西部警察」いや「太陽にほえろ」のドラマ撮影をほうふつさせる物々しさが、よりいっそう両陛下の宗像市ご訪問の現実味を帯びてきたのでございます。

しかし不運なことが起こってしまいました。予定されていた当日、台風が九州に上陸し、福岡を直撃はしなかったものの、強風の為に、両陛下は鐘崎にお見えになられなかったのでございます。この上なく残念なことでございますが、致し方なく、行政に従わざるを得なかったのでございます。

そもそも、天皇陛下や皇族方が慰問や式典のご参列は昭和天皇の頃から頻繁に行われるようになったそうです。それまでは戦争以外の出来事以外は、天皇陛下やご皇族方は外へは出ず、御用の方が拝顔に出向いてくるか、天皇陛下やご皇族方よりご命令が出ればその命(めい)を使者が名代として携えていくということが普通のことの様でした。その名代の方を勅使(ちょくし)と申し、その勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達することから、天皇陛下と同等の扱いをせねばなりませんでした。
その勅使がお見えになると、門すら一般者と区別せねばならず、「勅使門(ちょくしもん)」なる門を作りと、「勅使の間(ちょくしのま)」という部屋を用意の上、出迎えなければなりませんでした。

今現在では、天皇皇后両陛下や他の皇族方も一般社会に溶け込み(という言葉で表現するほど安直ではないでしょうが)、外出が可能になったため、勅使の方は、皇室に嫁がれる一般の結納に当たる納采の儀(のうさいのぎ)で、ニュース報道で目にすることぐらいになったのではないでしょうか。
また、勅使が通る為の門としての勅使門でしたが、今現在は、直接天皇皇后両陛下や他のご皇族方がお通りになった門を勅使門というようになりました。各宗派の総本山や大本山に両陛下やご皇族方がお通りになった門は、大切に管理され、今現在も一般の参詣者は通ることはできず、また天皇皇后両陛下やご皇族方がお見えになるまで開けることはございません。
長男が修行しております「総本山光明寺」にも勅使門がございまして、昔ご皇族がご参拝くださって以来、今現在まで門は開けておりません。いつの日か、ご皇族方がお見えになり、勅使門が開く機会がございましたら、皆様にお知らせを致したいと存じます。

世界遺産 沖ノ島と関連遺産群

この度、地元宗像にございます沖ノ島を含む関連遺産群がユネスコに日本の世界遺産として21番目に登録されました。
検索情報(ウィキペディア)によりますと、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、福岡県の宗像市及び福津市内にある宗像三女神を祀る宗像大社信仰や、大宮司家宗像氏にまつわる史跡・文化財を対象とするものであり、自然崇拝を元とする固有の信仰・祭祀が4世紀以来現代まで継承されている点などが評価されて、世界遺産委員会では、航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価された、と記載されております。
地元というだけで、嬉しさはあふれるものの、ただ何となく知っていて、よくわからないのがユネスコの世界遺産ではないでしょうか。

そこで調べてみますと、ユネスコは単体単語ではなく、すごく長い英単語連立の頭文字をとって、UNESCO(ユネスコ)と呼ぶようになったそうです。日本語での正式名称は、国際連合教育科学文化機関というそうです。本部はフランスのパリにあり、教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さないとの理念のもと、設立の意義を定めたユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」との文言があり、設立の目的とその精神を顕著に表しているのです。そのユネスコの設立は、1946年で、1954年にはハーグ条約が採択され、武力紛争の際にも文化財などに対する破壊行為を行うべきでないことが打ち出されたのでした。

そして、そのユネスコで専門家による審議を繰り返し、最終認定を受けたものが世界遺産となります。その世界遺産は3つに分類され、「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」に分けられます。

沖ノ島と関連遺産群は、沖ノ島が冒頭につくため、自然遺産と思われがちですが、「文化遺産」として登録されております。沖ノ島は普段は神職が一人いるだけで、一般の人が入れる交通手段はなく、それ故に古代の祭事の遺跡が多数手つかずのまま残っており、奉献品約8万点が既に出土しているとのことで、沖ノ島は別名「海の正倉院」と呼ばれているそうです。

日本にある世界遺産は、その価値があるゆえに世界遺産登録になることはもちろんですが、辺鄙(へんぴ)なところに点在する世界遺産の場合では、その周りが開拓され、観光収入が増大する現象が多々あるようです。世界中から注目され、その対応するだけの宿泊先が間に合わないなど理想と現実の混同でどこにその遺産と多方面の環境を保持するかが課題の様です。しかし、沖ノ島と関連遺産群においては、関連施設8か所中7か所は参拝や立ち入ることが可能ですが、最も重要視されている沖ノ島は本土から60キロ離れているうえに、交通手段はなく、今後も一般の参詣者の上陸の窓口を広める意思はないようです。よって、年に一度抽選で200人の参詣者を募る募集要項の激化は免れないでしょう。
しかし、大切であるが故のかたくなな保全は、その神聖さの歴史的意義を感じさせられるものです。

教本の紙

ご供養の際に僧侶は読経を致し、ご回向させて頂くのでございますが、何十年住職を勤めて参りましても、全てのお経を暗記し、熟知致しているわけではございません。法要によっては、めったに読経しない不慣れなお経などがあり、その際は経本を目にしながら、読経をさせて頂きます。

皆様もご覧になったことがあると思いますが、ほとんどの経本は、じゃばら折になっております。じゃばら折とは、山折りと谷折りを繰り返し、楽器のアコーディオンのように広げることも小さく畳むこともでき、たくさんの仏具が配置されている経机の上に、極小に置くことが出来る大変便利な形となっております。
ただその形が定着するまでにはかなりの時間を必要と致しました。 そもそも、紙が発明されるまでは、日本を含む中国アジア圏では、木や竹に文字を書き写しておりました。やがて中国で運命の紙が発明されました。
しかし当初は、麻の糸や樹皮、ぼろ布などを原料として使い、まだ技術力が低く文字を書くための紙というより、銅鏡などの貴重品や、貿易献上品の品物等を包む「包装紙」の様な目的でしか使うことが出来なかったようです。
それ故、なお写経に使われる道具は木簡などを依然使用していたのです。やがて木簡の保管等を考え、不便さを解消するために、時の漢の皇帝は国を挙げて紙づくりに取り組んだのでございます。そして100年以上の歳月を費やし、文字を書くことに適した紙が開発されたのでございます。

その世界的画期的な発明は、シルクロードを経て渡り、ヨーロッパで技術革新していったのが「西洋紙」であり、中国から日本に伝来され、日本独自の技術で確立されましたものが、「和紙」でございます。日本への伝来は、奈良時代に中国の僧によりもたらされたとされておりますが、日本に伝わった紙はまだ改良の余地があり、研究熱心な日本人特有の技術努力により、より完成度の高い紙が作られるようになりました。
その日本最古に製造された紙は正倉院に納められているようです。そして日本で紙の必要性が高まる最も高い理由の一つは、仏教のためだと言われています。仏教が盛んになると写経に使う紙の必要性が高まり、益々完成度も高まったようです。

その後、紙の製造技術が上がると、その紙片を張り合わせ、長い横紙が作られるようになりました。そして、その保存方法として巻物のように丸めて保存する巻子本(かんすぼん)というものが確立されました。その紙の形状が出来た為、物語の絵巻物、家系図、等情報の立体表現方法が各段に上がりました。
しかし、折り曲げることなくきれいに保存できる利点はあるものの、開閉に不便さがあり、読みたいところ見たいところを開くには、横に長く伸ばさなければならない上に、読み終えるとまた再度巻く手間がかかるという大変な不便さが生じたのでございます。それを解消すべく考案されたのが、じゃばらの形を致しました「折本」でございます。その形を今も用いて写経された経本が使われているのでございます。

紙は、奈良時代以降どんなに技術が進んでも、大変高価な品物であったことには変わりなく、身分の高い僧侶や貴族しか使うことは許されませんでした。それがやがて、平安時代になると原材料も見直され、伝播当初、使われていた材料の「麻」から、「コウゾ」や「ガンピ」へと移行し、しかも、使用済みの古紙を再度すいて、再利用していたそうです。その紙は薄墨紙(うすずみがみ)と呼ばれ、漂白技術はあまり発達していなかったために墨ムラがあったそうですが、当時からリサイクル志向のあるエコな日本であったことには感心させられます。
奈良時代から受け継がれた経典そのものを今使用しているわけではございませんが、奈良時代に苦労して紙を作り、手書きで写経したはるか彼方の先人の遺徳は大切に読経せねばと思っているところでございます。

迷信の沙汰「夜爪を切ると・・」

子どもの頃、雷が鳴ると雷様にお臍を取られるだの、食べた後すぐ寝ると牛になる、等、子供のしつけの会話の中で多くの迷信が引用されてきました。理化学的に裏付けされているものも中にはあるようで、例えば「ネコが顔を洗うと雨」とか、「ヘソのゴマを取ってはいけない」などといった表現は、先祖たちが言っていたことを素直に信じると病気や災害を避けられるものも含まれているようです。

では、迷信とはいったいどのようなことを具体的に指すのでしょうか。私たちの感覚では、単に意味もなく口にする「ことわざ」と申しましょうか、口癖と申しましょうか、言うことに何のためらいも弊害も感じないものと思っておりますが、法的にも言及される人種差別や人間の尊厳にかかわる根深い迷信もあるのです。その迷信として挙げられるものの一つに「狐持ち・きつねもち」の迷信があります。この考え方は、近世中期の頃、出雲地方で信じられ、その後その周辺諸国に色濃く信じられた迷信といえるでしょう。

「狐持ち」の迷信とは、「狐持ちの家系の人はキツネの霊を操り人を呪う」と信じている迷信のことで、「狐霊というのは人に憑いて憎む相手を病気にしたり、呪いをかけたりすることができる」と信じられてきました。「狐持ち」とされてしまった家系の人は、この迷信のため差別され、自由な結婚も認められないなどの苦痛を味わったとのことです。この迷信は根強く、現在でも忌み嫌われている地方があるということに驚かされます。いうまでもなく、国際人権規約 2条に抵触しておりあってはならないことです。世界的に見ても、中世ヨーロッパの魔女狩り等もこれに似た現象なのかもしれません。人々に信じられている考えで、多数決の力が真実味の強みを増したとき、例え合理的な根拠を欠いていても、それが是であるとなる典型的な現象でしょう。

それとは逆に迷信には多くの良さもありまして、人生の些細な戒めであったり、指針であったりする何気なさに共感を覚えるものも多くあります。

夜爪

例えば「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信があります。「夜爪(よづめ)」は、「世詰め(よづめ)」と音が同じで、短命という意味と重なり忌み嫌われました。これは日本人に得意な語呂合わせ戦法です。また夜爪は「夜詰め(よづめ)」とも読み替えられ、「夜詰め」とは「通夜」のことを意味し、 「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という表現は、確かに複合的な意味合いの寄せ集めであり、単なる言葉遊びにすぎないものもありますが、儒教の教えが伝わったころからその意味は一層深まりました。その経緯をご説明致しましょう。

まずは爪にまつわる記述を調べてみますと、何と「日本書紀」にまでさかのぼるのです。そこには、人体の一部である爪には霊魂が宿り、霊気が強まる夜に切ることなかれ、と記載されているとのことです。その後儒教が日本に伝わると儒教の教えで、来世でも親子、兄弟であることを信じ願い、亡くなった人の埋葬際、爪や髪の毛を一緒に埋葬し弔ったといわれております。また、江戸以降になると金属加工の技術が向上し、はさみが考案されましたが、照明器具が不十分な時代にて手元が見えなく危険で、傷でも負えば感染症で命を実際に落とすこともあったとか。 こんな現象は親の死に目に会えないという迷信が出来た決定的な事案のようです。また、手作業で労働を強いられていた時代、作業の過程の摩耗により爪が伸びることは今ほど頻繁でなく、爪を切るとは楽をしている証拠と揶揄されることもあったようです。 いずれにしても、夜に爪を切ると何もいいことが無いから、夜に爪を切ってはいけないとされたという、結論の迷信として定着したのでした。お分かり頂けましたでしょうか。

仏旗(ぶっき)

以前の「いずみ」で宗紋の話を致しました。
一つは浄土宗の紋である杏葉紋(ぎょようもん)もう一つが浄土宗の中の我が宗派、西山浄土宗が使う久我竜胆紋(くがりんどうもん)です。どちらも浄土宗としての寺院が使う紋様であるため、他の仏教宗派(例、曹洞宗、日蓮宗、天台宗・・等々)では違う紋様を使います。
では、宗派を超えて、日本仏教としては共通の紋様があるのでしょうか。
実は、日本には59の宗派と各都道府県に存在する仏教会(連合会)が所属する「全日本仏教界」という公益財団法人の団体がございまして、更にその公益財団法人は「世界仏教徒連盟」に加入しており、その加盟団体が使う仏旗(ぶっき)が世界仏教共通の旗として用いております。その形式は、仏教を象徴する精神を六色で表し「六色仏旗」とも呼ばれております。

しかし、仏教誕生2500年の歴史に対し、この仏旗の歴史は意外に浅く、1885年にスリランカで開催された「コロンボ委員会」においてデザインされました。
その後、形の手直しがなされ、1950年5月25日に、世界仏教徒連盟(WFB) の第1回世界仏教徒会議(開催国:スリランカ)において、この旗を世界の仏教徒のシンボルとし、正式に「国際仏旗」として採択されました。
日本国内では1954年に、第2回日本仏教徒会議(会場:永平寺)において採択され、日本でもようやく浸透していった経緯がございます

国際仏旗は、左から青(緑)、黄、赤、白、橙(紫)、の5色が用いられます。しかしこの旗の名称は、六色で表す「六色仏旗」で、一色足りません。6色目に配する色は、一番右の列に5色を上から順番にに並べた縞模様とし、またそれらの色にはそれぞれ意味が込められている。

  • 青(緑)は仏陀の頭髪の色で、「定根」をあらわす。
  • 黄は仏陀の身体の色で、「金剛」をあらわす。
  • 赤は仏陀の血液の色で、「精進」をあらわす。
  • 白は仏陀の歯の色で、「清浄」をあらわす。
  • 橙(紫)は仏陀の袈裟の色で、「忍辱」をあらわす。
  • 残りの1色は「輝き」をあらわし、旗の6列目には独自の色は配されず、他の5色を上から順に並べた縞模様で表現される。

日本各宗派では、多くの寺院で旧配色の仏旗を使い、幕や幡、幟(のぼり)」でその色を取り入れております。

仏旗(新配色) 仏旗(旧配色) 適当な写真がなく、これはよそのお寺です
億劫(おっくう)

昔、あるところになかなか子どもが生まれない夫婦がいました。
でも、ある時、ようやくかわいらしい男の子が産まれました。
お父さんとお母さんはとても喜んで、この子が元気で長生きするように、と偉いお坊さんに頼んで、長生きできそうな名前を付けてもらいました。
お坊さんは一生懸命考えて、ありがたい言葉や長生きした人の名前授けてくださいました。両親は結局その中から選ばず、全部くっつけて、とてつもなく長い名前を男の子に授けました。と、ご存じ、落語の「寿限無(じゅげむ)」というおはなしです。

名前は、「寿限無(じゅげむ)寿限無、五劫(ごこう)のすりきれ、海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ)、雲来末(うんらいまつ)、風来末(ふうらいまつ)、食う寝るところに住むところ、やぶらこ うじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命(ちょうきゅうめい)の長助」でございます。

その言葉一つ一つの説明をしておりましたら、お盆の初盆表が載せられませんので、その中の「五劫(ごこう)のすりきれ」の話でございます。

この「劫」とは、仏教でいう時間の単位です。縦・横・高さがそれぞれ一六〇キロメートルの大岩があって、ここに百年に一度だけ天人が降り立ち、その天人の衣が大岩の表面をなでてすりきれるまでの時間を一劫(いっこう)といいます。それを五回繰り返すことが「五劫(ごこう)のすりきれ」でございます。要は、それくらい長生きしてほしい、という願いなのです。
そして、この劫が一億回も続いた時間を「億劫」といいます。「オッコウ」が「オックウ」と読み替えられて今に至っております。 つまり「億劫」はとてつもなく長い年月のことで、限りなく永遠に近い時間と考えます。そんな数えつくせぬほどの長時間のことを考えると、目の前の些細なことに一喜一憂するのではなく、おおらかな心境にさせてくれるのが「億劫」の語源の真髄です。

しかし現在は、時間が長くかかってやりきれない心情を指し、めんどうで気が進まない様の意味に転じてしまいました。有難さの深みが、悪くとられてしまうようになったのでございます。

それに致しましても、親が子に有らん限りの願いを込めて名を授けるのは、いつの世も同じでございますし、わが家も長男に限ってはそうでした。次男、ましてや三男となると、なんか適当感が出るのはこれもまた世の常でございましょうか(苦笑)

億劫(おっくう)

昔、あるところになかなか子どもが生まれない夫婦がいました。
でも、ある時、ようやくかわいらしい男の子が産まれました。
お父さんとお母さんはとても喜んで、この子が元気で長生きするように、と偉いお坊さんに頼んで、長生きできそうな名前を付けてもらいました。
お坊さんは一生懸命考えて、ありがたい言葉や長生きした人の名前授けてくださいました。両親は結局その中から選ばず、全部くっつけて、とてつもなく長い名前を男の子に授けました。と、ご存じ、落語の「寿限無(じゅげむ)」というおはなしです。

名前は、「寿限無(じゅげむ)寿限無、五劫(ごこう)のすりきれ、海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ)、雲来末(うんらいまつ)、風来末(ふうらいまつ)、食う寝るところに住むところ、やぶらこ うじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命(ちょうきゅうめい)の長助」でございます。

その言葉一つ一つの説明をしておりましたら、お盆の初盆表が載せられませんので、その中の「五劫(ごこう)のすりきれ」の話でございます。

この「劫」とは、仏教でいう時間の単位です。縦・横・高さがそれぞれ一六〇キロメートルの大岩があって、ここに百年に一度だけ天人が降り立ち、その天人の衣が大岩の表面をなでてすりきれるまでの時間を一劫(いっこう)といいます。それを五回繰り返すことが「五劫(ごこう)のすりきれ」でございます。要は、それくらい長生きしてほしい、という願いなのです。
そして、この劫が一億回も続いた時間を「億劫」といいます。「オッコウ」が「オックウ」と読み替えられて今に至っております。 つまり「億劫」はとてつもなく長い年月のことで、限りなく永遠に近い時間と考えます。そんな数えつくせぬほどの長時間のことを考えると、目の前の些細なことに一喜一憂するのではなく、おおらかな心境にさせてくれるのが「億劫」の語源の真髄です。

しかし現在は、時間が長くかかってやりきれない心情を指し、めんどうで気が進まない様の意味に転じてしまいました。有難さの深みが、悪くとられてしまうようになったのでございます。

それに致しましても、親が子に有らん限りの願いを込めて名を授けるのは、いつの世も同じでございますし、わが家も長男に限ってはそうでした。次男、ましてや三男となると、なんか適当感が出るのはこれもまた世の常でございましょうか(苦笑)

レンゲ草と滝野瓢水(たきのひょうすい)

皆さん覚えておられますか? 以前の「いずみ平成23年7月号」に掲載致しました「蓮のあれこれ」ですが、その際の掲載内容は、蓮にまつわる「ことわざ」と蓮の名が付く「大山蓮華」という花の紹介を致しました。
本日の「蓮にまつわる」ご紹介は、誰もが知っている「レンゲ(蓮華)草」でございます。この時期、春の野にレンゲのピンクに菜の花の黄色、そして麦の緑と春色の風情を表します。化学肥料の普及で、レンゲ畑は少なくなっていると言われておりますが、目にする度に春の訪れと、なぜか懐かしいのどかな気持ちにさせてくれる「レンゲ草」をまずは紐解いてみたいと思います。

レンゲ草の花言葉は、「あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ」「心がやわらぐ」だそうです。一輪では華やかさに欠けるレンゲ草も、群衆で咲き誇る姿に、本当に心癒されピッタリな花言葉です。
日本固有の花と思いきや、中国原産の外来種とのことで、江戸時代の中期には緑肥として利用されたという記載があり、それ以前に自然飛来したものか、渡来したものと考えられています。
俳句の世界では、レンゲは春の季語で、それを用いた有名な句をご披露致しましょう。

レンゲソウ

手に取るな やはり野に置け 蓮華草

播磨(現在の兵庫県)の俳人、滝野瓢水(たきのひょうすい)が詠んだ句で レンゲ草は野に咲くから美しく見えるのであって、それを摘んできて家の中に飾っても調和せず、美しく見えないことから、遊女を身うけしようとした友人をいさめる為に、遊女は色町にいてこそ美しく見えると諭しました。今でも、世の多くの男性諸君には頷ける苦言かもしれません。

滝野瓢水とは、実際のところどんな人だったのでしょうか。 瓢水は本名を滝野新之丞(しんのじょう)といって豪商叶屋(かのうや)の息子でした。しかし放蕩を尽して余りあるはずの財産を使い果たし、すっかり貧しくなってしまったといいます。 次々と土地家財を売り払い、立ち並んでいた蔵の最後の一つを手放すこととなったその日に

蔵売つて 日当たりのよき 牡丹哉

かなり浮世離れしていたと思われますが、物事に執着がなく、中々味のある俳人の様です。
晩年、瓢水は出家して自得(じとく)と名乗り、悟りを得たと自称していました。ひとりの僧がそんな瓢水に会ってみたいと訪問したところ、薬を買いに出かけていて留守をしており、僧は帰ってきた瓢水に、悟りを得た者が死ぬのをいやがるのかと詰め寄ると、瓢水はそれに次の一句で答えました。

浜までは 海女も蓑着る 時雨哉

海に入れば濡れてしまうのに、なぜ海女は蓑(みの)を着るのか、仕事の前に風邪をひかないためです。 同じように、死ぬときまではきちんと生きなければならないと、瓢水の悟りの妙境を見る気がします。

◆レンゲはちみつとははちみつ

レンゲはちみつとは、レンゲの花のみから採れたはちみつになります。
日本人好みのはちみつの一つで、上品なコクとソフトでまろやかな舌触りで、香りはフローラル系の匂いがし、日本人に馴染みのあるはちみつって感じのはちみつで、”はちみつの王様”とも呼ばれています。レンゲはちみつの国内生産は岐阜県が一番で、発祥地とも言われております。
料理にも使いやすく、肉料理や魚料理などの隠し味に使いやすく、臭みを抑えて肉を柔らかくして隠し味として使えます。はちみつ自体に癖がないので何にでも合わせやすく使いやすいのが特徴です。主な効果として、便秘解消、利尿効果、肝機能向上効果などがあります。 レンゲ草の知識が広がりましたでしょうか?  本日はこれにて

誌公帽子(しこもうす)
誌公帽子イメージ
この方は私ではありません。(苦笑)

お葬式の際に、住職が頭にかぶっているものを「誌公帽子(しこもうす)」といいます。孫悟空の三蔵法師をイメージ下されば、お分かりかと存じます。

そもそも、僧侶の頭を包むものは、帽子(ぼうし)と書いて「もうす」と読ませます。
これは、浄土宗をお開きになられました、法然上人が当初、比叡山で天台宗を学んでいた影響により、禅宗系特有の読み方を用い、浄土宗でも帽子(ぼうし)と書いて「もうす」と読むのです。

さて、誌公帽子(しこもうす)について調べてみたところ、仏衣として誕生したのではないようです。『四分律(しぶんりつ)』という巻物の中によりますと、寒いとき、尼僧さん(女性の出家者)が、頭が冷えて痛みを訴えたため、お釈迦様が頭を包む帽子を許したと、記されております。ですから、僧侶の威儀を整えるためのものでなく、耐寒のための苦肉の策であったのです。

その後、中国の斉(せい)の時代になり、皇帝に迎えられた宝誌(ほうし)が身に着けた頃から僧侶の仏衣として定着していきました。それ故、名前が宝(ほうし)のかぶった帽子で、誌公帽子(しこうもうす)という名前になり、今ではそれが短くなって、誌公帽子(しこもうす)というようになったのです。日本では、平安時代には既に着用されているようで、現在では、葬儀などの大法要のとき導師が着用するようになりました。
ところで、誌公帽子(しこもうす)の名前の由来となった宝誌(ほうし)は実在した中国南北朝時代の僧侶で、武帝(ぶてい)に召し抱えられていた僧侶でした。
しかし、ちょっと変わった僧侶だったようで、皇帝のお抱え僧侶になる前は、長髪・裸足の姿で徘徊し、手にした杖には鏡や、はさみなどをぶら下げ、更には、僧侶に禁じられていた酒を口にしていたので、奇人扱いされていたのは当然でしょうが、予言能力にたけ、人の心中を言い当てるほか、念力により病を治した為、権力者に恐れられ、何度も投獄されていたようです。

宝誌像

やがて、皇帝に召し抱えられると、皇帝が絵師に宝誌(ほうし)の人物画を描かせたところ、絵師の目の前で宝誌(ほうし)の顔が割れて中から菩薩が現れ、その中の菩薩がどんどん変化するので、結局お顔を書く事が出来なかったということです・・・
もはや、宝誌の話がここまでくると、逸話に逸話が加えられ、かなりの眉唾話としか言いようがないのですが、その話の通り、現存する宝誌像は、額が真っ二つに割れ、中から仏様の御顔が見えております。

たかだか、仏衣の説明ではございましたが、これで、誌公帽子(しこもうす)の由来がお分かり頂けましたでしょうか。

鐘の音色

除夜の鐘の音と言えば「ゴォーン」と皆様口にされるでしょう。

NHKゆく年くる年の番組が始まると、多少の音色の違いはあるものの、どれも「ゴォーン」と鳴り響いております。
その鐘には古来より特徴があるようで、鐘の音の説明の前に、日本古来の楽器には、12種類の標準的な高さが定められており、それを十二律(じゅうにりつ)というようで、その中の黄鐘調(おうしきちょう)が鐘の音には良いとされ、現代の平均律の「ラ」音(周波数440Hz)に近い周波数430Hz の音をいうようです。

また、鐘の音については時間の経過と共に「アタリ」「オシ」「オクリ」「ウナリ」の4つの部分があり、これらの調和のとれた鐘の音がいいとされているようです。

  • 「 アタリ」→鐘を撞いた直後の音で、「ゴォー」という響きで始まり濁りのない音が望ましい。
  • 「 オシ」→その後に続く比較的高い安定した音で数秒から10 秒くらい続く。オシは複合音で遠くまで届き、遠音とも呼ばれるらしい。遠く離れたところから聞こえてくる鐘の音はこの「オシ」部分だそうです。
  • 「 オクリ」→オシのあと次第に減衰しながら数十秒から一分近く続く音で、ほぼ単一の音からなる。
  • 最後に、一秒程度の「ウナリ」が明瞭に聞こえる鐘がよいといわれる。ウナリは非常に説明がしにくい音ですが、微かな余韻と申しましょうか、消えゆく音を何とか引き留めたいと願うような音で、鳴らずして、しかし鳴る音という感じです。
    ※理数学的にはとても複雑な説明で理解不能でした。

因って、鐘の音を文字にすると、「ゴォーン」となるのです。ありがたや、ありがたや。

京都・禅林寺(永観堂)

法然上人が開かれました浄土宗ですが、法然上人没後、法然上人ゆかりの寺院が浄土の根源寺院として、総本山や大本山となり法然上人の教えを受け継いで布教に勤めて今日まで参りました。
 時の流れの中で、法然上人の教えを受け継いだ弟子の僧の中に、その教えに対する若干の受け止め解釈の違いや、展望の違いが生まれ、結果、浄土宗は2派に分かれて布教をするようになりました。

その一つは、鎮西上人が流れを作った浄土宗鎮西派(総本山が知恩院の為、知恩院派とも言います)で、もう一方は西山上人が流れを作った浄土宗西山派の2派でございます。
鎮西派は総本山・知恩院を軸に7ヶ寺の大本山を全国に持ちその流派布教に勤めております。中でも、長野の善光寺などは誰もが一度は行ってみたいお寺なのではないでしょうか。観光として、念仏奉公としてご参詣は功徳ほかなりませんが、私ども西山派とは違う、他派の鎮西派寺院であることはご理解の上でご参詣下さればよろしいかと存じます。

では、浄土宗西山派はと申しますと、大本山は無く 禅林寺(永観堂)を本山とする「浄土宗西山禅林寺派」と 誓願寺を本山とする「浄土宗西山深草派」と我が「西山浄土宗」の3派に分かれ、浄土根源の精神を修行追求し、布教に勤めております。
 師匠の教えを弟子が受け継ぎ、師匠の教えの探求の中、弟子は己の考えと信念を持つことで流派確立となって、枝分かれしていくことは、むしろ真剣であれば真剣であるほど当たり前のことのように思えてきます。私のような愚僧は高僧の深い考えを到底超えることが出来ないので、実直に継承するのみであるのでございます。

さて、本題ですが、ご説明致しました西山派の中の1派の禅林寺(永観堂)でございますが、このお寺はちょっと変わった経緯の西山派のお寺でございます。
 禅林寺12世の僧の静遍(じょうへん)上人は、当初真言宗の僧でしたが、後に法然上人に帰依し、念仏門に入ったのでございます。詳しくご説明致しますと、住職となった静遍上人は、高名な真言宗の知識をもち、お念仏を唱えるだけで救われるという浄土の教えに反発をおぼえ、自分の宗派の教えのほうが正しいと証明する決意で、法然上人の著書を開きました。 ところがいくら読んでも 「間違っているのは自分では」 と思わせられることばかりで、ついに静遍はお念仏の教えに深く帰依したのでございます。そして法然上人の愛弟子、証空上人を次の禅林寺(永観堂)の住職として招いたのでございます。

そして禅林寺は、法然上人を宗祖に、証空上人を流祖にいただく、浄土宗西山禅林寺派の総本山となりました。これでお分かりの通り、分かれ、分派したのではなく、宗派を変えて浄土宗に改宗したのでございます。
 それだけ、法然上人の浄土の教えが広く深く人々の心をつかんだのでございます。もし、京都本山参りをする機会がございましたら、併せて禅林寺(永観堂)もお参りされてはいかがでしょうか。 因みに、禅林寺(永観堂)も総本山光明寺同様、もみじ寺として有名なところでございます。

そしてその禅林寺に三男萬斎を連れて行った際、迷子になり大騒動したことは、親族の中でも有名な話でございます。(苦笑)


仏前結婚

私どもお寺の僧侶が結婚する際、本堂の阿弥陀様の前で結婚の報告をさせて頂く式を執り行います。その仏式を「仏前結婚(ぶつぜんけっこん)」と申します。本堂と言えばお葬式や法事といった法要を連想されるでしょうが、「仏前結婚」の際は、本堂に紅白の幕を張り、紅白の餅を供えお祝いムード一色になって執り行われます。

今現在の多くの方の結婚式と言えば、ウエディングドレスを着た教会式が多く、次に着物で神前式、もしくは、式は行わずに披露宴だけというケースもあり、スタイルや形式は様々です。

そもそも、結婚式の歴史は古いのでしょうか。調べてみましたところ、「古事記・日本書紀」に日本神話として「イザナノミコト、イザナノミコト」の結婚話が出てくるそうですから、1400年ほど前には、何がしかの習わしがあったようです。ただ、江戸時代までは今の披露宴(祝言)を含む大人数の宴を行う人は、身分が高くそれなりの家柄と役職に就いた人たちのみで、多くの場合は両家の親族のみで行われる顔合わせが主流の様でした。

それが明治に入ると、鎖国を解いた日本に外国人、とりわけ宣教師がやってくるようになり、教会で行う結婚式が当たり前の文化の人から見ると、神仏の前で永久(とわ)の愛を誓わない日本人が野蛮に見えたと揶揄(ヤユ)するような書簡も残されていたようです。その影響からかどうなのかは定かではございませんが、明治の初め、日蓮宗の僧侶、田中智学氏が正式な結婚式(本化正婚式)の規定を制定し、世に出しました。

その後、明治天皇の結婚の儀に宮中三殿に拝礼し、神の前で誓いをたてる形式の結婚の儀が行われました。今でこそ永久の愛を誓う事は当たり前でしょうが、昔は高貴な人ほど、妾を持つことが許された時代ですから、天皇が一夫一妻制を前提とする結婚式を挙げるという事は、皇室ではこれが史上初の出来事でした。

田中智学氏の本化正婚式の規定と明治天皇の結婚の儀により、一般の人にも結婚式というものが少しずつ意識されていったのであります。

仏教界では本化正婚式の規定制定後、曹洞宗の住職が浄土宗の方との結婚の際、互いの宗派の違いという垣根を超える意味でお互いの「数珠の交換」をし、この行為が仏式の結婚式の礎となりました。その出来事をもとに大正時代には三三九度や親族固めの杯を取り入れた結婚式の差定(取決め文章)が決まりました。

明治の時代背景でほぼ同時期に「仏前結婚」「神前結婚」が誕生したので、執り行う内容は類似したものが多いようです。僧侶にかかわらず、檀家様ですとその方の菩提寺で「仏前結婚」が出来ます。結婚式場の商業施設でも今は「仏前結婚」に対応可能な場所の提供もあるようです。祝詞の代わりに僧侶がお経をあげるという形式ですが、阿弥陀様のご来光をあびて神聖なる誓いをたてる結婚式です。興味のある方はご参考にされて下さい。

前述のように、「仏前結婚」「神前結婚」の執り行いに多くの類似行為があると記載しましたが、一つ大きく違う事がございます。それは式の半ばで行う「行華(あんげ)」という所作です。
この記述に関しましては、また機会ございましたら掲載させて頂きます。お楽しみにされて下さい。

合掌


仏花(ぶっか)・菊

お供え物と申しますと、、お花、菓子、果物が一般的と認めましたが、神仏にお供え物をするようになった歴史は古く、紀元前のまだ日本に仏教が伝来される前の、太陽信仰をしている頃にさかのぼります。

その頃は狩猟で獲物をしとめた際に、一旦神に獲物を捧げ、それから食すようにしておりました。やがて農耕が始まると、収穫の品を供えるようになりました。
その後、中国から仏教が伝来されると、中国の影響が色濃くなり、宗教儀式の必需品として花が供えられるようになりました。中国の思想では花に対する意識が高く、高貴な美しさを持つものとして「梅・竹・蘭・菊」の4種を君子に例えて「四君子」と呼び、他の花と一線を介しておりました。

その思想が日本にも伝わり、鎌倉時代に後鳥羽天皇が愛用して以来、天皇家の紋として受け継がれてきたため、特に菊が高貴な花と日本では定着しました。
とは申しましても、菊の花は一部の高貴な人が愛でるだけで、一般の人が目にするようになったのは、まだまだ後の事です。

仏教が一般市民に広がる江戸時代でようやく人々が身近な仏様にお供え物をするようになったようです。勿論その際の花は、野に咲く花です。特に故人様が亡くなった際の時期の花は、故人様を思い出させ、特に思い入れの花であったことは時代が変わっても同じです。
葬儀の際に桜が咲いていたならば、桜の咲く時期になると故人様を思い出すように、故人様に因んだ花がある事で、その花を愛でる気持ちは強くなります。その花と年に一度出会えた喜びの気持ちも、故人様へのご供養となっていることでしょう。
現在、過去の歴史は抜きにして、仏花として菊は重宝されている理由に、花持ちがよく丈夫であることや、品種改良がしやすく多種多様の姿を持ち、日本風土に合う上、花粉が散らない等、便利性も重視されているようです。

また「菊」と「聞く」で、ごろ合わせをし、仏様にあるがままの私の胸の内を聞いてもらう、仏様のみ心を聞かせて頂くという、日本人に特有な言葉のあやも浸透してきているようです。

何はともあれ、花はあっても仏心という心なければ意味はなく、花はなくとも大切な仏心の持ち合わせが一番であることは間違いございません。

合掌


浄土三部経(じょうどさんぶきょう)とは
動物たちも集合
『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』

浄土宗の教えのよりどころとする経典は「浄土三部経・じょうどさんぶきょう」と申しまして、『仏説無量寿経・ぶっせつむりょうじゅきょう』『仏説観無量寿経・ぶっせつかんむりょうじゅきょう』『仏説阿弥陀経・ぶっせつあみだきょう』の三経典を指し、法然上人が最も大切だと選ばれました経典のことでございます。因って浄土三部経は、浄土宗根源の経典でございます。

『仏説観無量寿経・ぶっせつかんむりょうじゅきょう』

お釈迦様がこの世で生きていた頃、釈迦国の王子の妃(きさき)であった韋提希夫人(いだいけぶにん) を対象として例にとり、人がどのようにして極楽浄土に往生するかを説いております。

『仏説無量寿経・ぶっせつむりょじゅきょう』

阿弥陀仏が仏となられた因縁である本願を記し、その中に人々を苦しみから救いたいと願うその思いと、その願いが成就達成してからのお慈悲が述べられています。

『仏説阿弥陀経・ぶっせつあみだきょう』

この『阿弥陀経』には、極楽浄土はどういうところかということが説かれています。
それは西方十万億土の彼方にあり、六方(東西南北と上下)の諸仏が念仏の教えの正しさを証明し、いま現に阿弥陀仏が説法されており、その行者をまもると説かれています。
また、その国をなぜ極楽というかといえば、その国の人びとにはなんの苦悩もなく、ただ安穏だけを受けるからであると説かれています。

中々意味まで理解することは難しいでしょうが、法要中のお経が上記の意味を説いていると知って法要に出るとまた感慨深くお感じ頂けるかと存じます。

合掌


干支

 年の瀬になると、お正月の生活用品が目白押しになると共に、年初めから使う手帳やカレンダーが一斉に売り出されます。早馬の如く午年(うまどし)が終わり、来年の干支・未年(ひつじどし)に因んだものも所狭しと、販売されます。

 来年の干支である「未年(ひつじどし)」ですが、「ひつじ」とは言うものの、羊年とは書きません。十二支全てに動物があてがわれているにもかかわらず、書く文字が違うのはどうしてでしょうか。

 もともと十二支は、中国殷(いん)の時代、十二年で天を一周する木星の軌道上の位置(天の位置)を示すための任意の数詞でした。 つまり十二支は「年」を数える年号名称だったのです。やがてその考えは「月(12ヶ月」や「時(12時間)」を数える数詞などにも用いられていきます。

 その際に使われていた中国での文字は子(シ)、丑(チュウ)、寅(イン)、卯(ボウ)、辰(シン)、巳(シ)、午(ゴ)、未(ビ)、申(シン)、酉(ユウ)、戌(ジュツ)、亥(ガイ)ですが、やがて中国より日本に十二支が伝わると、ある民話と結びつくのです。

  昔々の大昔のある年の暮れのこと、神様が動物たちにお触れを出したそうな。
「元日の朝、新年の挨拶に出て来い。一番早く来た者から十二番目の者までは、順にそれぞれ一年間、動物の大将にしてやろう!」動物たちは、おらが一番とて、めいめいが気張って元日が来るのを待っておった。

  ところが猫は神様のところにいつ行くのか忘れてしまったので、ねずみ に聞くと、ねずみはわざと一日遅れの日を教えてやった。猫はねずみが言うのを間に受けて、喜んで帰っていったと。さて元日になると、牛は「おらは歩くのが遅いだで、一足早く出かけるべ」と、夜のうちから支度をし、まだ暗いのに出発した。牛小屋の天井でこれを見ていたねずみは、ぽんと牛の背中に飛び乗った。そんなこととは知らず、牛が神様の御殿に近付いてみると、まだ誰も来ていない。

  我こそ一番と喜んで待つうちに門が開いた。とたんに牛の背中からねずみが飛び降り、ちょろちょろっと走って一番になってしまった。それで牛は二番、 それから虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪の順で着いた。猫は一日遅れで行ったものだから番外で仲間に入れなかった。それでねずみを恨んで、今が今でもねずみを追い回すのだそうな。

福島民話 干支情報サイト参照

 結論から申しますと、12年の年の数え方を分かりやすく、動物を使って表しただけのことです。やがてウソか本当か、干支別の性格判断や、その年の幸運グッズが売り出され、干支は日本固有の代物となりました。

 何々、未年の女性の性格・・人当たりが良くて温和、口答えや口げんかを嫌い人間関係が良好・・嘘だ嘘だ!!!

 我が家に一人未年の年女がいる!彼女は一切上記の性格には当てはまらない虎のようなタイプだ!!とりあえずその人の年齢は36歳とごまかしておこう。

(そんなわけないですな!嘘はバレバレ・笑)


今更聞けなかったお十夜の流れ

お十夜の申込用紙

いつも配られているお十夜の申込用紙に、 分かりやすく色を付けてみました。
【1日目】
昼の部(13時~) AとB
夜の部(19時~) CとDになります
【2日目】は
昼の部(13時~) DとC
夜の部(19時~) BとAになります

AとB、CとDの間で休憩がありますので、 軽食とられたり、飲み物を飲まれたりされております。

例(1日目) 
AとBパートの方は1時に来られて、AパートBパートの途中で休憩をとり、全ての方のお勤めをし、Bパート終了後ご帰宅となります。A,Bパート通してお勤めになります。

以外に忘れがちな・・・お十夜便利グッズ

敷物・・ご家庭のスペースが確保されると共に、冬の底冷えを防ぎます。
    ※前もって本堂で場所取りをされております。前日にお持ちになってひかれて下さい。

お賽銭・・全員の方が、ご自分のお参りだけではなく、同じパートの方もお参りをされていますので、多めのお賽銭のご用意が宜しいかと。

椅子・・本堂の椅子は数が足りなくなります。ご自分用のご用意を

お数珠・・一番忘れておられます。前もってご準備しておきましょう。

服装・・お参りの服装は、普段着で構いません

電気ポット、ホットカーペット等電気製品の本堂ご使用は固くお断りいたしております。ブレーカーが落ちてしまいます。


仏頂尊(ぶっちょうそん)と仏頂面(ぶっちょうづら)

仏像日頃私どもは、何気に使っている言葉でも、原点は歌舞伎の用語あったり、歴史の故事に因んだものであったり致すものがございます。また、私どもが信仰致しております仏教から生まれた言葉もたくさんあるのです。その一つをご説明致しましょう。

 仏像の原点は、仏教をお開きになったお釈迦様のお姿ですが、後の高僧たちが人々に仏教を広めていく過程で、信仰の対象として様々な仏像を作るようになりました。
人間であった一人の王子であるゴータマ・シッダッタ(パーリ語形)、またはガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語形)が入滅後(死後)お釈迦様として祀られ、そのお姿を仏像にしただけでなく、各時代、各国で経典や仏教神話に沿った仏像が作られ始めたのです。

 特に如来像には、悟りを得て超越した存在を具現化するために、三十二相の姿の特徴があるようです。よく知られているもので、耳たぶが肩に付くほど長く、足裏には不思議な印があり(涅槃像を思い出して下さればお分かりかと)額には大きな「ほくろ」の様なものがございます。中でも仏様の頭髪はイボ状の突起物の肉髻(にくけい)が付いており、てっぺんにお椀を伏せたように盛り上がっております。その部分を「仏頂(ぶっちょう)」と申します。「仏頂(ぶっちょう)」は、仏の智慧の象徴とされ、特に神秘的な力が宿っているとされました。

 密教系の宗派では、「仏頂(ぶっちょう)」の一つ一つ肉髻(にくけい)に独立した仏が存在しているとされ、そのお力の象徴仏として「仏頂尊(ぶっちょうそん)」という仏様が作られました。「仏頂尊(ぶっちょうそん)」は智慧に優れ、威厳に満ち溢れている容姿とされ、その反面、現世の我々には無愛想で不機嫌に見えることから、不機嫌な顔つきを「仏頂面(ぶっちょうづら)」というようになりました。

 因みに、我が家の三人の子供たちは、毎朝起き抜けが「仏頂面」で、ふてぶてしく不機嫌です。これからは3人のことを「仏頂尊様(ぶっちょうそんさま)」と崇め、誠にありがたい存在であり、決して親をイライラさせているのではなく、親を改心させ、親の人格形成向上に子供が一役買っているのだと思い、精進して参ります。


黒田官兵衛(くろだかんべえ)無理押し語録

黒田官兵衛NHK大河ドラマの黒田官兵衛(くろだかんべえ)は高視聴率を維持しているそうで、福岡ゆかりの人物とあって県民の注目度もうなぎ上りの様です。福岡市の公式ホームページには、黒田官兵衛の応援特集コーナーを設け、黒田官兵衛に関する各種イベントを掲載しております。
ここ宗像市でも、3月には宗像市発行の新聞「むなかたタウンプレス」にも1ページ丸々の特集が組んでありました。その人物の功績や歴史背景はすでに皆様もご存じの事でしょう。

愚僧私の気になったことは、その「むなかたタウンプレス」の黒田家ゆかりのお寺が紹介されたことです。黒田官兵衛直筆の文書がある「承福寺・臨済宗」や「西福寺・浄土宗」はすぐ近くのお寺で、黒田官兵衛(くろだかんべえ)ブームと共に脚光を浴びているのではと、俗人さながらにうらやましく横目で見ておりました。(笑)
現に黒田官兵衛のお墓がある黒田家の菩提寺・崇福寺や黒田官兵衛の妻、光姫が開基した、円応寺は、参詣者増大とのことです。

泉福寺の梵鐘では、我が泉福寺も何か黒田官兵衛繋がりはないものかと見渡してみますと・・ ありました!!県の文化財に指定された梵鐘(本堂内保管)です!!

その梵鐘がどのように黒田官兵衛に繋がるかと申しますと、黒田官兵衛の息子の黒田長政(くろだながまさ)が一度海底に沈んだ釣鐘を引揚げようとしたのです。
但し結果は、失敗に終りました。(あちゃちゃ)
その後、1665年に当時の泉福寺の住職・照空上人(しょうくうしょうにん)が檀家様と力を合わせ奉納した鐘が、その後、福岡県文化財となり、現在、本堂に納められております。

え~・・若干無理やりのくくりですが、黒田官兵衛とかろうじて繋がる、・・繋がってないかもしれませんが・・いえ繋がっていると願いたい泉福寺であります。

(住職苦笑)

泉福寺の藤
ちょっとご紹介! お寺のヤマフジ見事ですよ!!

 
日本三大梵鐘

京都・東山の方広寺の鐘日本で一番大きな梵鐘は京都・東山の方広寺の鐘です。このお寺は 豊臣秀吉の発願により1595年に建立されました。ところがその後、地 震や火災に見舞われ、1612年に大仏と大仏殿、1614年に梵鐘が完成し 今に至っております。鐘の大きさは、高さ4.2m、外形2.8m、厚さ27㎝、 重さは82.7㌧もあります。

京都・東山の知恩院同じく 京都・東山の知恩院の鐘は「えーいほとつ、そーれ」の掛け 声とともに親綱を持った僧侶と16名の子綱を持った僧侶たちの総勢17 人で大鐘楼の鐘を突かれます。釣鐘の重さは約70㌧。高さ3.27mで外 径が2.73m。そして、鐘を突く撞木の長さは3.8mです。方広寺に引け を取らぬ大梵鐘です。

奈良市・東大寺最後に奈良市・東大寺の鐘楼に吊られている 梵鐘 は、高さ3.86 m、 口径2.76 m、重さ26.4㌧あり、大きな釣鐘であるところから 大鐘 (おおがね)と呼んでいるようです。この 鐘楼 は、 国宝 に指定され ています。
除夜の鐘を撞くとき、鐘が大きいので、先着順に8名づつの組になっ て綱をひくことになるそうです。 

和蝋燭(わろうそく)

ろうそく蝋燭(ろうそく)の歴史は古く、古代エジプトにはピラミッドの中から蝋燭(ろうそく)が出土していることから、紀元前3世紀には蝋燭が存在していたことが分かります。

日本に蝋燭(ろうそく)が登場するのは奈良時代に入ってからで、仏教の伝来とともに中国から伝わってきたとされております。もちろん蝋燭(ろうそく)は仏教儀式に使われたのですが、当時は日本で製造しておらず、中国からの輸入されたものだけでしたので、かなり貴重な品物でした。日本では、平安時代に入ると、ようやく蝋燭(ろうそく)が製造されるようになりました。原料は蜜蝋から松脂へ更には、ハゼの実や漆から作られた蝋燭(ろうそく)が登場しました。明治以降は、石油化学工業の発達により石油パラフィンが大量生産されると、和蝋燭(わろうそく)は洋蝋燭(ようろうそく)に変わってしまいました。一般によく目にするほとんどの蝋燭(ろうそく)が洋蝋燭(ようろうそく)です。

現在の洋蝋燭(ようろうそく)は、芯が燃焼に伴って燃え尽きるようになっていますが、芯の太い和ろうそくは芯が燃え尽きず、上に残ってしまます。そうなると、明るさの質が落ちるため、適時芯の先を切り落とす作業を必要とします。手間はかかりますが洋蝋燭(ようろうそく)の炎がやや丸く安定した炎であることに対し、和蝋燭(わろうそく)は筆の穂先のような炎で、蝋燭の構造上、燃焼中はずっと炎が揺れ続け、幻想的な空間を作ります。原料が植物という事もあって、煙が少なく臭いやススが出にくいとされております。

今では、和蝋燭(わろうそく)の職人さんの減少や原材料の不足により、手作りの和蝋燭(わろうそく)は手の出ない高級品で、機械作りの和蝋燭(わろうそく)でさえも洋蝋燭(ようろうそく)よりも高価です。ただ、日本人として、日本古来からある和蝋燭(わろうそく)を目にする機会がございましたら、一度は体感してみて下さい。

ハゼの実 山漆の実 和蝋燭の芯切
ハゼの実 山漆の実 和蝋燭の芯切
お寺豆知識・お盆のお供え物  ~みそはぎ

鐘崎言葉で「みそはぎ」の事を「そうはぎ」とも呼んでいるようですが、全くの方言で実際のところ学名は「みそはぎ」で漢字にすると禊萩(みそはぎ)となるようです。

学名  ミソハギ属ミソハギ科。

みそはぎ名称の由来は、「みそぎはぎ」を略したもので、古来の習わしの「みそぎ」に由来しております。
「みそぎ」とは海や川に身を投じて体を清め、罪や穢れを洗い流すという宗教感のある民族行為を言います。それに因んで、お盆で先祖の霊が帰ってくる際に、先祖の霊と共に悪霊が迷い込んでこないように、悪霊を祓うという願いを込めて「みそはぎ」を仏前に供えるようになったようです。  
また、みそはぎの「はぎ」は「萩の花」に似ているからとのことです。

「みそはぎ」は日本全域に分布繁殖しているようで、お盆行事に各地域のお供え物として定着していると共に、地域ごとにその取扱いも若干の違いがあるようです。  

パターン1
各家庭で盆前に「みそはぎ」の枝を水に浸して、仏前の供物に「みそはぎ」から滴る水をかけて、禊ぎ(みそぎ)の儀式をする。

パターン2
長野県などでは、お盆の入りの日に、「みそはぎ」の花に水をつけて玄関先でおはらいをして祖霊を迎える。

パターン3
住職のお盆参りに、回向中住職の所作として「みそはぎ」を水に浸し仏壇に水を掛ける行為をする。必ずお参りの際に、用意しておかなければならない。

パターン4
ところてんの出来上がり原型を数センチの四角に切り(それを鐘崎言葉で「かがみ」と申すようです)、それを水の張った器に入れ、その上に「みそはぎ」の花を浸す。

鐘崎編と致しましたが、継承されているご家庭はかなり少なくなっているようです。
また、出身が京都である私と致しましても、北九州出身の家内の実家でもそのような風習はなく、いつどのように習わしが出来たか定かではありませんが、折角生まれた風習ならば、継承する楽しみもまたお盆ならではのことかもしれません。
仏教三大聖樹・沙羅双樹

沙羅双樹(フタバガキ科):釈迦が亡くなった所にあった木

沙羅双樹(さらそうじゅ)

 今からおよそ2,500年前の2月15日(諸説多々あり)、お釈迦様は八十年の生涯を終えられました。
横たわり亡骸となったお釈迦様の周りには東西南北それぞれ一本ずつの沙羅(さら)の木がありました。
 沙羅の木は、一本の幹が二股に分かれ、二株あるところから沙羅双樹( 図①さらそうじゅ)と呼ばれており、その一方だけはお釈迦様の死を悲しんで枯れてしまったと言われております。
また、他の諸説では、この時、季節外れの白い花を咲かせたとも伝えられております。
枯れたとも、白い花を咲かせたとも言われておりますが、その様子は、今現在の御葬儀にも反映しております。
 それが「四華花(図③ しかばな)」という仏具です。お釈迦様の亡骸の四方に白い木が立った様子を、四華花に見たてております。
 しかし、沙羅双樹はインド原産の常緑樹で熱帯樹の為、日本では育ちません。
平家物語にも登場する沙羅双樹ですが、日本で沙羅双樹と言っている樹木はツバキ科落葉樹の「ナツツバキ(図②)」のことです。
 花の形はご覧のとおり全く似ておりませんが、共に花は朝咲ききると、夕方には色褪せて散ってしまいます。
 その共通の植物の性質から、一日限りの花の命の短さを、全ての儚さに例えたのです。
図①インド沙羅双樹 図②ナツツバキ 図③四華花
仏教三大聖樹

 仏教三大聖樹とは、お釈迦様の誕生から入滅までの間で、仏教確立に関わり深い樹木の事を申します。
印度菩提樹(インドボダイジュ)と無憂樹(ムユウジュ)に娑羅双樹(サラソウジュ)があります。

今回は、印度菩提樹についてお話致します

印度菩提樹(インドボダイジュ・クワ科イチジク属)

 印度菩提樹は、お釈迦様が悟りを開いた場所にあった木といわれております。
そもそもお釈迦様は、修行を始めるにあたり、当初、2人の仙人のもとで思想を学び、悟りを得ようとしましたが、どの教えも彼を満足させず、5人の弟子と共に苦行を行うようになりました。
しかし、体を痛めつけ、断食をしても悟りに至る事は出来ず、苦行だけでは悟りを得る事が出来ないとお釈迦様は知ったのです。それ故、何事も極端な考えではなく、中道が肝心と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止め、ガヤー村の菩提樹の木の下で静かに座禅を組んで瞑想に入ったとされております。
その瞑想中、悪魔が悟りを妨害する為に、大軍で押し寄せるなどの横槍もありましたが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となったと言い伝えられております。
ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになり、今でも仏教聖地のひとつです。

お釈迦様の悟りを祝い、仏教では12月8日には成道会(じょうどうえ)が行なわれます。

釈迦の悟り

 お釈迦様は「生老病死の苦」を克服する為に悟りを得ようと、たゆまなく努力したのですが、行き着いた回答が、「執着を捨てる」ということでした。
 世のすべてのものは移ろいでゆき、恋愛感情や若さがそうであるように、どんなに今のまま変わらないようにと願っても、例外なく変化していきます。人は世の中が常に変化しつつある「無常」なものと頭で分かっていながら、欲望が心に生まれると「無常」を忘れ、煩悩(欲望)が判断を誤らせ、永遠に変化しないものを求めて結果、相手の心変わりを非難しては嘆き、失ってしまった物をいつまでも惜しみ悔やむのです。

 お釈迦様は「ご縁」をテーマにして、「苦」の根源を探った結果、万物が変化するという事実を認めない「無知」が「迷い」を生み、迷いが「欲望」を生み、欲望が「執着」を生み、執着が「苦しみ」を生むという結論に至ったのです。
 「無常」という真実をあるがままに受け入れることでしか心の平安(悟り)は得られないのだから、心が勝手に真実を曲げて解釈しないようにしっかりと現実を直視し、すべてのものに対する執着を断てよとお釈迦様は説かれました。

彼岸花・ひがんばな
ひがんばな
(別名 曼珠沙華・まんじゅしゃげ)

 仏教経典(法華経←他宗教にて目にしたことはありません)に曼珠沙華と出てくるそうですが、その花は「天空の花」「天界の花」とされ、空想の花です。実際の彼岸花の別名が曼珠沙華になったのかは、今現在の調べでは定かではありませんでしたが、天に向かって反るようにして立ち上がっている花弁の姿が天空の花とイメージが重なるのではと考えております。

 時期を誰かが教えたはずもないのに、秋の彼岸に一斉に真っ赤に咲き誇る姿は、人々の目を奪います。特に田畑の畔に列をなす姿は、しみじみと秋の到来を感じさせてくれるものです。
そもそも日本列島には彼岸花が自生しておりませんでした。しかし、稲作と一緒に中国から持ち込まれ、日本全域に広まったとされております。
当時から彼岸花の性質を熟知していた人々は、彼岸花の特性を自然の中に生かして、必要なところに植え付けておりました。彼岸花にはアルカロイドという毒があり、モグラの餌となるミミズがその毒を嫌い近寄らない為、結果モグラが少なくなるようです。

 また当時の墓地は土葬の為、動物が掘り起こすことを防いでくれました。
更に有毒性の植物は年貢の対象にはならないので、田畑に大量に植え、救済食として、保存確保していたようです。但し食べる為には、毒抜きが必要で、長時間水にさらす必要があります。
近年では彼岸花の毒成分の一つである「ガランタミン」という成分がアルツハイマー病の治療薬として利用されているそうです。

 生育方法は、まず花が咲き、花が終わると葉が出て、春に葉が枯れる事を繰り返し、決して花と葉が同時に生育することはありません。それ故、俳句の季語と致しましては「花は葉を思い、葉は花を思い」という意味で「相思愛」の意味合いを持ちます。

 因みに季語繋がりで申しますと「お彼岸」という季語は、俳句の世界では「春彼岸」のことを指し、中日や彼岸前も同じく春の彼岸を示したものとなります。秋の彼岸を用いる場合には、あえて「秋彼岸」と使わないといけません。

ひがんばなの咲く光景

ここで一句・・・・・・

  ・・・・あぁ~出てこない

各地の面白お盆風習
≪ 広島県 安芸編 ≫

広島では、お盆になると竹に色とりどりの紙を貼った盆灯篭(ぼんとうろう)をお墓にお供えするそうです。

初盆家だけは、白の盆灯篭になるとのことですが、見事に艶やかです。

≪ 高知県 中土佐編 ≫

このあたりではお盆に面白い風習があります。

「ほうかい」と呼ばれる行為で、路地に火のついた松明が置かれて火の上を子供たちが『ほうかい!』と叫びながら飛ぶそうです。(やけどしないで!)

≪ 長崎編 ≫

御存じ派手なお盆と言えば、長崎でしょう。
中でも精霊流しは、一族郎党で爆竹を鳴らしながら、台車に乗せた数mから長いもので何 艘も連ねた50m近くある精霊舟を「流し場」と呼ばれる所まで運びます。

価格も10万円台から数百万円とこれまたビッグなお話です。

≪ 岩手県 盛岡市編 ≫

町内単位で3mほどの精霊舟を作り、お戒名や名号を書いたお札が張り付けてあり、紙提灯や紙花で飾りつけた舟を、フンドシ姿の男氏で運び、北上川に浮かべ火を点けて流します。

舟には爆竹や花火が仕掛けられていて見応え十分なようです。

卍(まんじ)

お寺を表す文字と言えば「卍(まんじ)」と皆さん思われることでしょう。しかし、考えてみますと、なぜあの形がお寺を表す文字になったのでしょうか。また、文字もの形も奇怪なら、「まんじ」という呼び名もお寺とかけ離れているように思われます。そこで、「卍(まんじ)」とは何なのかを調べてみることと致しました。

卍(まんじ=万字)の歴史は古く、紀元前の古代インダス文明の栄えた各地域で、出土品に図案化された多くの形象文字が残っており、その中に太陽が光を放つ状態を象形化したのが卍(まんじ=万字)の起源であるとされるようです。読み方は、すべての力=万の意味を持つことから、卍=まんじ・万字と読まれるようになりました。 また、太陽の光だけではなく、運動のシンボルや、他に吉祥の意の図案化したものが起源とする説など多説も多く残っております。

時代の流れで、文字や宗教が発達してくると、ヒンドゥー教では、ビシュヌ神(※注1)の胸毛の渦巻きを象徴するものとされ、仏教では釈迦の胸や足裏にある瑞相という意味にされ、ジャイナ教(※注2)でも吉祥の印として用いられています。

※注1 ヴィシュヌは、ヒンドゥー教の最高神の1つで、4本の腕を持ち、男性の姿で表されております。妻帯者で、ラクシュミーと言う妻を持ちで、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びて行き、そこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされております。 (他宗教は難解です・・苦笑)
※注2 ジャイナ教とは、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代に開かれ、特に不殺生の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教一派。 仏教と異なり、インド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。

ヒンドゥー教もジャイナ教、仏教もすべて、インドまたはその周辺で、開かれたので、古代インダス文明から時代を経て、宗教と卍の結びつきが深まっていったのは歴史上当然のことのように思われます。 卍が確立された初期には、回転の方向による明確な意味付けはなかったようですが、太陽・天体の動きである右回りが定説になると、インドでは樹霊が宿る菩提樹を中心に右回りしながら男児の誕生を祈る行為が生まれ、仏教聖地を右回りに拝するのが良いと考えられるなど、右万字が聖なるもの、それに対し左万字は逆に死を表すものとして区別されるようになりました。

やがて他説があまり重んじられなくなり、卍(まんじ=万字)が仏教の中に溶け込む事が主な使い方になると、より一層、仏様の胸・手足・頭髪などに宿った瑞相(ズイソウ)を意味するようになり、仏心のしるしとして用いるようになりました。そのことから、卍自体が寺院や仏教の記号・紋章としても使われるようになったのです。 現在「卍」は、地図標示に宗派を問わず「仏教寺院」のマークとなり、漢字の文字がマーク化することは実に異例である、とされてあります。

一言に、寺院記号の「卍」ですが、かなり古くからの歴史背景があったことがお分かり頂けましたでしょうか。では、最後に一休みして、誰も知らない卍の書き順(筆順)をお教え致しましょう。


六曜・友引(ろくよう・ともびき)

友引を含む先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口この言葉の日取りを「六曜(ろくよう)」と申します。現在で使われる先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口、の「六曜」は、古くは、赤口以外は全て違った言葉で使われておりました。 かつての言葉は即吉、共引、周吉、虚亡、泰安、赤口の順で繰り返されていた、とされております。

六曜とは元々、6日を一定の周期とし、それぞれの日を区別する為の「日にち単位の名称」として使われていたのです。即ち、月曜日、火曜日と同意味語扱いなのです。

それが時代の変化の中で、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口と文字が違う当て字に入れ替えられると、文字意味から想像するイメージが定着したのです。中でも「友引(ともびき)」は「凶事に友を引く」の意味が植えつけられ、ある日ある方向に事を行うと災いが友に及ぶとする考えに至ったのです。

やがてその思想は、俗説ながらも日本人風土として完全に定着し、葬儀を行うと身内にも不幸が起こるとされ、葬儀を行わなくなりました。よって、結果的に火葬場が休みになったのです。 今現在は、俗説は俗説として考え、とらわれることなく、友引でも火葬場が稼働している自治体が多くなってきております。 しかしながら、宗像市は今現在まだ友引の日は、火葬場はお休みです。

よく、法事は仏滅にしたら良くないですか?等のご質問もございますが、現代風に言い換えれば、法事は火曜日にしたら良くない事ですか?といったような意味と同じ事なります。 縁起の良いことや、勝負事等、気遣いさることは日本人の大変良い風潮と思われます。また、多くの人との調和から昔ながらの流れを壊さずにすることも善いことでしょう。しかし、六曜とは本来「昔の曜日の名前」であることは御理解下さい。

一般的なカレンダーなどにも、これまで広く用いられ印刷されてきました。しかし、行政をはじめとする公共機関が作成するカレンダーでは使用せず、掲載を取り止めるよう行政指導を行っている機関もあるそうです。これは、根拠のない迷信であること、無用な混乱を避けるなどの理由によるようです。


正座

 お寺参りや御法事等の仏事ごとで一番嫌われることの一つが「正座」でございます。若い方から年配の方まで、万人共通の苦痛事項でしょう。 小一時間の拘束時間、制約された座布団スペース、姿勢を正していかねばならぬ緊張感、どれをとっても苦痛の何ものでもございません。何とかしびれや足の痛みと戦いつつも、困ることに一度焼香に立たねばならず、立つ姿勢に持っていこうとしも、神経が断絶されたかと思う位に動かぬ足、おまけにどう乗り越えていいのかさえ分からなくなった理不尽なしびれ。誰しもがこの経験があり、畳に正座と聞くだけで敬遠したくなるものです。

 そもそも、なぜ日本人は正座をするのでしょうか。この疑問に応えるべく、歴史を紐解き調べましたところ、江戸時代以前は、胡坐(あぐら)や立膝、横座りが普通で、お行儀の悪い所作とはみなされていませんでした。武家、僧侶、茶人に至ってでさえ、誰もが正座などしてはいなかったのです。また、当時の生活は板張りが主たる住環境で、服装も私の衣を想像して下さればお分かりのように、襞状(ひだ)の長いプリーツスカートのような服装でしたから足の様子が目に触れないことが、胡坐(あぐら)等の座り方には都合が良かったのでしょう。 それが時代の移り変わりで、武家社会では、殿様と地方君主の身分の違いの象徴作法、茶の世界でも狭い茶室の効率よい席入りのための正座が所作として確立されていったようです。

 仏教の世界では、法要座法として正座はあったものの、やはり胡坐(あぐら)が一般的でした。ところが、江戸時代に一般大衆へ仏教が浸透したと同時に、畳が普及したので、正座が出来る環境が整いました。それに加え儒学が中国より伝わった為、人々の心に道徳学や心理学が学ばれ、礼儀・良徳・治世に大きく影響を与えました。その儒学精神の礼儀、良徳なるものが、苦痛をこらえる正座に美徳要素を持たせ、日本人らしさの象徴的所作となったようです。

 現代では、精神修行として仏教、神道、茶道、武道等多方面の世界で定着しておりますが、泉福寺本堂に用意されております椅子でお分かりのように、正座をしなくてもよい環境が出来つつあることも事実です。 時に志高める手段として正座をするも善し、心はそうあるとも椅子にて行うも善し、と各々の過ごし方が肝要かと存じます。 因みに、愚僧私が正座に慣れているので全くしびれない、と思われている方も居られるやもしれませんが、それは間違いで、多いにしびれと戦う若輩者でございます。


仏具の歴史と意味 三具足(みつぐそく)、五具足(ごぐそく)


三具足(みつぐそく)


五具足(ごぐそく)

三具足は燭台(ローソク立て)、香炉、花立(花瓶)で、五具足は燭台1対(2本)、香炉1つ、花立1対(2本)です。
花瓶は普段の生活の中でも、花入れとして当たり前に用いられておりますが、仏教の儀式において重要な役割を担っております。

花瓶は香炉と燭台と共に三具足、もしくは五具足を構成し、仏様の供養のために欠かせない道具です。仏具としての花瓶の多くは、基本、一対(2本)で使用する小型の仏具です。その用途は本来の花挿しではなく、水を入れた花瓶に樒(しきみ)を挿し、香水として供えるというもので、水を貴重なものとするインド仏教の作法に由来しております。

また、ローソクは仏教においては仏前に供養する燈火のことで燈明(とうみょう)と申します。
燈明は闇を照らし、明らかにすることから、仏の智慧をあらわします。人生の迷いを闇夜とするならば仏のお智慧を頂くことで我々凡夫の煩悩を己に自覚させ、正しい生き方を教えて下さる道標の象徴です。

そもそも、「火」の歴史を振り返ってみますと、太古の昔、大自然の変動から「火」という知恵を人類は学びました。その炎は自然界の偶然がもたらしたもので、当時の人類は、当然メカニズムも理解できず、ただ得た炎を絶やさないことに知恵を絞ったようです。
そして、その貴重な「火」を持続させるために草木をくべて燃やし続けました。ところが、火にくべられた草木の違いにより、立ち上る煙の香りの違いに気づき、時に、魂を揺さぶるほどの気持ちの高揚をもたらすものや、時に鎮静と安らぎをもたらしてくれる「心の作用」を発見したのです。
「火」と同様に「香り」の力を神秘の魔力とした当時の人類が、「火」と「香り」を偶然の発見から宗教的な意味合いに取り入れていくようになったのです。
その後、「香り」はその原料を薬として使われるものや、権力者の香水として珍重されるものもでき、様々な分野へと広がってまいります。

仏教としての「香」は、本来はインドの熱帯地域特有の臭気を消す匂い消しに趣を於き、亡骸を荼毘に臥す際に香を焚くことが仏教儀式として定着していきました。
やがて日本にも「香」が入ってきましたが、当時の権力者は「香木(こうぼく)」を焚くことが「祈りの香り」と定め、手厚い儀式を重ねることで、神仏が己に力をもたらしてくれるものと信じ精神教義を深めてまいりました。そんな中、仏教も日本にもたらされるようになると、祈りの境地から「香」は無くてはならない儀式の必要性が生じてきたのです。江戸時代になると、一般大衆にも仏教は普及し、それと共にお線香は浸透していきました。
当初、木片を焚く形のみであったのが、江戸時代の仏教の普及に伴い、今の線香の形になったようです。

インドの「香」はシルクロードを経て東に渡った香りといえば「お香や線香」です。しかし、西のヨーロッパへ渡ったものは「香油」、「香水」といった液体のものへと発展しました。それがやがて、明治時代になると、日本にもヨーロッパの文化が入ってきました。
香水の文化は線香の製造技術と融合し、今現在のお線香の形態が多様に繋がったのです。

今では、仏教の供物としての「お線香」だけではなく、香りを重んじ、その香りの効能から、精神安定やリラックス安眠などの効能が科学的に証明され、自己の精神コントロールに用いられるような多方面性も生まれております。
人々の日々の暮らしに欠かせない「火」や「香」と、仏具の結びつきがご理解頂けたでしょうか。


施餓鬼定番料理・水芋

泉福寺の施餓鬼法要と言えば水芋の胡麻和えですが、この水芋は南西諸島が原産で、里芋の一種です。地域によっては、水芋をタイモ、天竺(てんじく)、ハス芋とも呼ばれております。成長すれば、大人の背丈ほどにも伸び、葉、茎、親芋ともに食用です。

調理方法は、表面の薄皮を剥ぎ、茹でて食べます。但し、里芋の一種故に、薄皮を剥く際に、かゆみが出ることがありますので、御注意下さい。また、味は淡白で、胡麻和え、酢の物、味噌汁の具等に使用致します。

水芋は、独特のしゃきしゃき感を楽しむ夏の食材です。


蓮のあれこれ

お寺には、「蓮の花」がつきものとはご存じの事でしょうし、その詳細はよくある質問コーナーで認めさせて頂きました。 その馴染みある「蓮」のことばを使った熟語に「一蓮托生」(いちれんたくしょう)がございます。この「一蓮托生」という言葉は、仏教からきたものでございます。

「南無阿弥陀仏」と念ずるこの世の人々は、必ず極楽往生して、同じ蓮華(極楽の象徴)に身を托し、仏に生まれ変わるという考え方を表しております。今では転じて、事の善悪にかかわらず、仲間として行動や運命を共にすることを表し、特に悪行の馴れ合いを総するかのような意味合いが深くなっておりますが、本来の真髄を十二分に理解し、お念仏の大切さをお感じ頂ければと存じます。

また、仏教で使う言葉と致しまして、倶会一処(くえいっしょ)という言葉がございます。意味は、倶(とも)に一つの場所で出会うことです。浄土宗で最も大切な経典の一つ「阿弥陀経」に出ている言葉で、極楽往生したならば、先に極楽へ往っているご先祖様や親しい人たちに会えるという有難さのことです。亡くなっても尚、お浄土での再会という仏縁を結んで下さる阿弥陀様の本願の素晴らしさを謳っております。

更に、「蓮」の付く言葉以外に、今度は「蓮」が付く「花」をご紹介致します。下記の写真掲載にございます「大山蓮華(おおやまれんげ)」と申す花がございます。 モクレン科の落葉低木で、本来は深山に自生する植物です。深山の静謐に佇むこの花を見た時、その花の様子が仏教に関わりのある「蓮華・はす」に似ていたからのようです。また、「森の貴婦人」や「天女花」の異名も持つごとく、美しく、気品ある姿も如来様のお姿と重なり合わせたのかもしれません。

花の命は短くて「一日花」に近いのですが、蓮のように開花の最後に一瞬にして散りゆくのではなく、開花後一日だけその姿を茶色に変色させつつも、留(とど)まります。色こそ枯れ行く色ですが、姿かたちは、凛とし勢いすらあるのです。 その花の性質が、枯れ行けど尊きて、仏教精神とことごとく追重致します。蕾から開花まで、表情深く、出会いがあれば心ときめかせる花であります。

言葉にも、花にも「蓮」が見て取れるには、生活そのものに、仏様の教えがあちらこちらにあることを表しております。

→蓮の育て方もご覧ください。
大山蓮華の蕾 満開の大山蓮華 散り際の大山蓮華

花まつりの由来

約2500年前の4月8日(旧暦の5月8日頃)に、お釈迦様がお生まれになりました。後に仏教をお開きになりましたが、その誕生の様子は仏教神話につづられております。

お釈迦様の誕生の際には、あらん限りの花が咲き乱れ、天龍が甘雨を注ぎ祝福されたと言われております。また、お釈迦様は神話によりますと、お生まれになるとすぐに天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)と語られたそうです。意味は、この世のだれもが尊い魂を持ち、この世に生まれてくる為のそれぞれの責務を持っている、という意味です。

お釈迦様は仏教を開き広める責務がありました。我々にも大いなるこの世での役割があるはずです。それが何なのかを探すことが人生です。

お釈迦様の誕生を祝し、わが子の成長を重ね、「甘茶供養」をさせて頂く「潅仏式」も有難い仏縁です。特にこれからの未来ある子供たちには、良い縁があって欲しいと願います。


法然上人 八百年御遠忌

浄土宗を開かれた宗祖法然上人は、往生極楽の為には、ただひたすらお念仏(南無阿弥陀仏)を称えることであると、お念仏の大切さを諭されました。

加えて、仏教を「お念仏を行う浄土門」と、それ以外の修行を行う「聖道門(しょうどうもん)」に分け、浄土門を現世で極楽往生を願ってお念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い、悟りを目指す門と説かれておられます。

また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いておられます。末法の世に生まれた我々凡夫にとって、聖道門の修行は困難を要し、浄土門に帰し、念仏行をする事でしか救われる道は望めないと謳われました。生きる苦行の上に更なる行は不要とし、ただひたすら「お念仏」による極楽往生を信じる心が大切であると法然上人が八百年前に説かれておられます。

そんな偉大なる宗祖法然上人が没後八百年となり、総本山 光明寺で「八百年御遠忌」が厳修されます。法要は4月19日から25日までお勤めされます。宗祖の遺徳を偲び、個々の節目となる八百年をお感じ頂き、お念仏下されば幸いです。


枕経

枕経と耳にされますと、悲しくもお身内がお亡くなりになり、何はともあれお寺さんに連絡し、和尚さんにお経をあげてもらわねばと、思うものです。

しかし仏教定義の枕経では、本来ご臨終になる前に差し上げるお経が「枕経」である。
と、ご存知の方は少ないことでしょう。 今まさに寿命全うし、ご臨終を迎えようとしている方へ、安心してお浄土へ旅立って頂ける様に、最後の功徳を授ける為に阿弥陀様のご来光を頂戴する為のお経なのです。 しかしその定義を、もし現代の生活に当てはめてみたらどうなるでしょうか。

空想話です。

とある病院の一室で、医師と看護師が職業信念の元、懸命な医療行為をしているさなか、もう元気な姿で家には帰っては来られないだろうと感じたご家族は、私宛に枕経のお願いの電話をかけました。私は集中治療室へ入り、医療行為を施している医師の横で枕経をあげる・・・
ということになります。

実際にそのようなことはあり得ません。 日に日に進む医療技術を以て、生命という炎をありとあらゆる方法で、ともしび続ける医療の現場と、仏教精神を追求し続ける宗教とは、同じ土俵での共存は極めて困難なことです。
ですから、実際には納得する方法でご臨終をお迎えになられ、ご家庭にお戻りになられた折に、住職による枕経をあげることが、今の生活様式に沿った行いといえるでしょう。

 

ただし形こそ違えども、お気持ちは、仏教定義の「臨終前よりお浄土への安穏な旅立ちを願い、且つ最後の功徳を差し上げる」という思いで、南無阿弥陀仏とお念仏下さればと存じます。

その精神を象徴するものが、故人様のお側に掲げられる「阿弥陀様のお軸」であり、「南無阿弥陀仏の名号のお軸」となるのです。

出来ればあって欲しくはない出来事ですが、避けては通れぬ人の生死ならば、知って納得の上で、心地良く故人様をお浄土へお見送りする安らぎをお感じ下さればと存じます。


総本山 光明寺 法要あれこれ

意外に知らないのが本山の事です。そこで今回は、総本山光明寺の年間行事の中で、大きな三大法要を簡単にお教え致します。

御忌 ( ぎょき )

浄土宗をお開きになった宗祖・法然上人のご命日をご回向致します。

ご命日は建暦2年(1212年)1月25日ですが、本山法要は4月19~25日に執り行われます。

中でも50年おきに行われる御忌(ぎょき)法要を御遠忌(ごおんき)と呼ばれ、節目となる仏縁に慶賀し、盛大に行われます。ちょうど来年の平成23年が「宗祖法然上人800年御遠忌」です。法然上人がお亡くなりになって800年というとてつもない歳月と、それまで脈々と受け継がれてきた「み教え」に至極の感謝でございます。

法然上人の教えは分かりやすく申しますと、「南無阿弥陀仏とお念仏すれば、必ずお浄土(あの世)に逝けます」と説かれました。

西山忌 ( せいざんき )

毎年11月26日に流祖・西山上人のご命日回向法要を致します。 ご命日は宝治1年11月26日 (1247年)です。法然上人の下で23年間修業し、法然上人の教義を基に独自の教義を確立致し、浄土宗西山派(現、西山浄土宗)をお開きになられました。それは法然上人の、人々が念仏するからお浄土(あの世)に逝けると説いたのに対し、既に阿弥陀様が大いなるお力で常にあの世へお導き下さっていて、決して自分の力でお浄土に逝っているのではないと諭されました。それは、阿弥陀様のお力を他力(願力)と称し、それによって導かれている、と説かれたのです。西山上人によって阿弥陀様の他力(願力)という強いお慈悲を頂いていると人々は教えて頂きました。 そして、その教えにより阿弥陀様のありがたさに気づかされ、感謝の心が自然と南無阿弥陀仏と称えずにはいられないと説かれました。

蓮生忌 ( れんせいき )

毎年9月4日に開基・蓮生法師のご命日をご回向致します。出家前の名を「熊谷次郎直実」と申し、源平の戦で名をはす武将でした。しかし戦の中で慙愧の念とこの世の無常を嘆き、法然上人の下へ出家致し、蓮生法師となりました。多くの寺院建立を果たしましたが、粟生の西山浄土宗総本山光明寺のはじまりである念仏三昧院を粟生の地に開基致しました。その功績は西山浄土宗末寺の今に繁栄し、威徳を称えております。


三宝・三方 ( さんぽう ) とは

本堂で行われる法要の際、正面祭壇にお供え物を供える台として用いる仏具に三宝・三方(さんぽう)と呼ばれるものがあります。形は木製で、折敷(おしき)と呼ばれる盆の下に直方体状の台(胴)がついた形をしております。

台の三方向に穴があいていることから、「三方」と呼ばれます。元々は折敷と台は分離していて、使用するときに台の上に折敷を載せ、また台に載せずに折敷だけで使用することもありました。

今日では折敷と台が完全に結合したものが使用されており、折敷だけで使用するものは三方とは別に用意するようになっております。

三宝・三方(さんぼう、さんぽう)は、古代には、高貴な人物に物を献上する際にも使用されました。寺院での祭事では、三宝(仏・法・僧)にかけて三宝(さんぼう・さんぽう)と書きます。


塗り三宝

道具としては四方向に穴のある四方という仏具もございます。格で申しますと四方の方が上位ですが、三方より入り込む三宝を受け逃がさない、との俗世間の意味づけで、仏具としては三方=三宝を用いるようになりました。

仏事の場合は塗りの三宝を使い、朱色の漆塗りが正式です。朱塗りは出来上がり当初は赤黒く暗い色になっておりますが、使い込むうちに鮮やかな赤になっていくことが特徴です。しかし高価な上、お手入れが大変ですので、実際には何度も洗える丈夫なプラスチックを使用致しております。


塗り高杯

他にもお供え物の台と致しまして高杯(たかつき)がございます。 高杯(たかつき)とは皿に脚をつけた形の器で、お菓子などを載せる器としてよく使用されております。高杯の歴史は古く、弥生時代には既にその原型が出来ておりました。元々高杯は、古来からおもてなしの席で用いられてきました。皿に食べ物を盛るだけでなく、皿に足をつけることで来賓の身分を高位に表し、敬意を込めた形にしたのです。


2つの施餓鬼の由来

目連 ( もくれん ) の施餓鬼は「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」によるといわれております。
この経典によると、

釈迦仏弟子の目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ておりました。目連は神通力で母を供養しようとしましたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できないのです。
目連は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねると、釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える7月15日(現8月15日頃)に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言ったのでした。
目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われたとのことです。
これが盂蘭盆の起源とされますが、この経典は後世、中国での逸話からきているようです。

これに対し、阿難(あなん)の施餓鬼は「陀羅尼経(だらにきょう)」によるものです。

釈迦仏弟子の阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れました。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であったのです。
その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言いました。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問いました。
餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言いました。
しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めると、釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を称えて供養すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われました。
阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われました。
これが施餓鬼の起源とされております。
施餓鬼

<餓鬼草紙より>


この2つの話が混同され、多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれております。どの逸話にせよ、人間は目の前に苦があることで救いを求める気持ちが生まれ、救いの中で感謝と未来への願いを懐くのです。
この世の苦は、全ては未来の感謝を得るためのありがたい手段なのです。

提灯(ちょうちん)

そもそもお盆の提灯はなぜ飾るようになったのでしょうか。
宗教儀式としての使用は鎌倉時代からとも言われておりますが、現在では、お盆提灯の明かりでお盆に戻られるご先祖や故人の霊が迷わず帰って来る目印として飾るとされております。また、お盆提灯には迎え火、送り火の役割でもあります。
そして、最も大切なことは、お盆提灯はご先祖様の冥福を祈り、感謝の気持ちを表すものなのです。

特に、初盆会となりますと、初めてのお盆会で、つい最近まで家族の一員だった故人に対し、追慕の気持ちが強く、特別にもてなしたいという心から初盆の習慣が強まったと思われます。
更に、玄関や軒先に提灯を吊るすことで、初盆家としての目印の役目にもなり、ご近所同士の関わりの中で日本の生活と仏教が密接に関わっている証でもあるのです。

江戸時代以前は、上流階級において宗教的な祭礼や儀式に使われておりましたが、江戸時代以降は蝋燭が普及したため、庶民も普段の生活の中で照明器具として使われるようになりました。
その頃から、今のように電気の無い時代の生活形態の照明器具の観点と、一般市民にも広まった仏教による供養の心がまさに現在の初盆の提灯飾りの原型になったと思われます。
昔も今も供養する心は形生活形態が変わろうとも今に受け継がれてきていることが誠にありがたいことです。

ところで、調べてみますと、以外にも福岡県は数種類の盆提灯の発祥地であり、生産地であることが分かりました。
二大産地は、岐阜県の岐阜周辺の岐阜提灯と、福岡県の八女周辺の八女提灯です。どちらの産地も経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けています。
また、博多発祥の提灯に博多長(はかたなが)があり、住吉提灯は博多の住吉町からその名前がついております。お盆には欠かすことの出来ない提灯ですが、今では様々な色、デザイン物があるようです。基本は、床に置くタイプ、天上から吊るすタイプに分かれるようですが、日頃使われることの無い提灯に明かりを灯し、故人に思いをはせ偲び、普段と違う空間での盆供養は今の忙しく生活する我々への心身の慰めでもあると存じます。
灌仏会と甘茶

灌仏会(かんぶつえ)
お釈迦様の誕生を祝う仏教行事です。毎年旧暦4月8日(現在の5月8日頃)に行われます。

甘茶(あまちゃ)
ユキノシタ科の落葉低木ガクアジサイの変種です。また、その若い葉を揉み、乾燥させ、それを煎じて作った飲料です。飲料としての甘茶は、黄褐色で甘みがあり、灌仏会(花まつり)の際に仏像に注ぎかけるものとして古くから用いられております。
甘茶の甘味成分としてフィロズルチン(d-phyllodulcin)とイソフィロズルチンを含み、その甘さはサッカリンの約200倍です。葉を乾燥させることにより甘味が出ます。
また苦味成分としてタンニンを含みますが、カフェインは含みません。
生薬としては、抗アレルギー作用、歯周病に効果を有します(日本薬局方に収載)。

風習
日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たて、誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で誕生仏に甘茶をかけて祝います。
甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時に、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の甘雨を注いだとの伝説に由来しております。
宗派に関係なくどの寺院でも行、甘茶は参拝者にもふるまわれます。甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりも致します。その中でも、泉福寺のように寺院手作りの甘茶は、本当に少なく貴重なものです。

なお、「花まつり」の名称は明治時代にグレゴリオ暦が導入され、灌仏会の日付の読み替えが行われた後の4月8日が、関東地方以西で丁度桜が満開になる頃である事から浄土宗で採用された呼称で、それ以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられていますが、現在の温暖化では当時の様子と随分様変わり致しております。

余談
失敗して物をダメにする事を「おしゃかになる」と表現しますが、 これは灌仏会に因むものです。江戸の鍛冶職人の隠語として、 あぶり過ぎて鈍ってダメにしてしまった金物に対して、 江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」 →「四月八日だ」→釈迦の誕生日、 というつながりで成立したとされております。


木魚 ( もくぎょ ) について
木魚

木魚とは、経を読む時にたたく木製の仏具です。中が空洞で横に割れ目があり、魚の鱗(うろこ)が彫りつけられております。
材質はさまざまで、ご家庭では白木(塗りの施されていないもの)が多く、高価な白木となりますと、唐桑などは破格の値がし、樹木に希少価値がある上、木が硬く作成に困難を要しますが、音は極楽の音(ね)とされております。

そもそも木魚というのは、禅寺で合図に打ち鳴らす魚板(ぎょはん・図A)が変化したものです。
魚板とは、魚をかたどった木の板で、木魚よりも魚に近い形状をしており、時刻や法要の始まり合図に使用しておりました。それがの時代に現在の形となり、江戸時代に日本へ伝来されたとみられております。

禅寺では現在でも使用されており、本堂側の魚板は法要合図で、食堂にある魚板は、修業僧の食事の時の合図に使われております。 浄土宗では、法要始まりの合図の仏具は、半鐘(はんしょう・図B)を用いております。

半鐘

では、木魚が魚の形をしているのはなぜでしょう?
木魚が魚をかたどった形をしている意味はいつも目を開いている魚は眠らないと信じられ(実際には魚は寝るようです)、眠らない魚のように不眠不休の精神で修行するという意味や、また真の眼(まなこ)を見開き、悟りを開く心を育む思いが込められております。

 現在では、本来の精神趣旨を含めると共に、読経の一定のリズムをとる為や、大法要などでの大勢のお坊さんのお経の声を合わせる為に、木魚は欠かせないものとなっております。

宗紋(しゅうもん)には2種類の文様があるのです
以前お話を致しましたが、当山泉福寺の宗派は「 浄土宗西山派 ( じょうどしゅうせいざんは ) 」で、通称「 西山浄土宗 ( せいざんじょうどしゅう ) 」と申します。

この我が宗派には、ご家庭の家紋のように、宗紋というものがございます。その宗紋は、本堂の至るところに文様され、建物のみならず、仏具の細部や私の袈裟に至るまで施されております。その文様には2種類の文様が使われているということはご存知でしょうか。

下記(A)のこの杏葉紋(ぎょようもん・アンズの葉)は、宗祖法然上人の生家の漆間家の家紋に由来しています。西山浄土宗の総本山光明寺の寺紋がこの「杏葉紋」です。

また、西山派として西山宗紋(B)もございます。この西山宗紋は曹洞宗で使われているのと同じ「久我龍胆(くがりんどう)」を宗紋としています。流祖西山上人が、村上天皇の末流「 源親季 ( みなもとのちかすえ ) 」の子として誕生し、9歳の時に一門の頭領であった「久我通親(くがのみちちか)」の養子になったことに起因しています。その後14歳で法然のもとで出家するのですが、西山各派ではこの「久我家の家紋」である「久我龍胆(くがりんどう)」を宗紋と定めています。

曹洞宗の開祖・道元禅師の実父こそが、この久我通親なのです。西山上人は養子、道元禅師は実子という違いはあるものの、この二人は義兄弟であり、そのため曹洞宗の宗紋と、西山派の宗紋が奇しくも同じ久我龍胆紋を使います。
杏葉紋 久我龍胆紋

   A:杏葉紋

 B:久我龍胆紋


施餓鬼旗 ( せがきばた ) には、どんな意味があるのでしょう?
施餓鬼幡の特殊な形は、「五輪塔(下記写真掲載)」を簡略化したもので、古代インド仏教において宇宙の構成と考えられた五大要素の(地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)の五つ)の象徴を意味致します。

その形を図案化し、卒塔婆(そとうば)や施餓鬼幡(せがきばた)の形が作られました。 また、施餓鬼幡の特徴であります色にも意味があり、更に方角も表します。 (下記表参照) ゆえに、施餓鬼幡には、各如来様からのご加護を頂戴し、ご先祖様をお守り頂くお力が込められております。 つまり、施餓鬼法要を勤めることで、お盆で戻ってこられた ご先祖様が、その如来様のお陰で、餓鬼道(地獄の一つ)に陥ら ず、あの世に間違うことなく戻られるのです。

特に新仏様は始 めてこの世へのお帰りで、迷って方向を誤り、餓鬼道に入り込まないように案ずるご家族の心配が、初施餓鬼供養として営まれるのです。ですから、お盆が終わり、無事にご先祖様があの世へお帰りになられましたら、その施餓鬼幡は、各家々で焼却供養致すのです。

要素
方角
守 護 仏
役     割

(緑)
阿弥陀如来
「大円鏡智(だいえんきょうち)」
で全てを映し出す智。
中央
大日如来
「法界体性智(ほっかいたいしょうち)」
で最高の智。
宝生如来
「平等性智(びょうどうしょうち)」
で全ての存在を 平等にみる智。
西
阿弥陀如来
「妙観察智(みょうかんざっち)」
で全てを正しく観察する智。

(紫)
不空成就如来
「成所作智(じょうしょさち)」
で全てを救う方法を知る智。



卒塔婆 ( そとうば ) の御戒名の上に書かれている 文字は?
法要の際に、納骨堂の卒塔婆(そとうば)を書かせて頂きますが、御戒名の上に見慣れない文字が書いてあるのはご存知でしょうか。

その文字は梵字(ぼんじ)と申します。梵字とは古代サンスクリット語の基礎にもなっている文字です。 その梵字により、あらゆる菩薩様や如来様の色・形・位置・持ち物などすべての真理をシンボル化し、それを目で見ることにより仏様自身を表現しているものです。

ですから、我々浄土宗の場合は、浄土宗のご本尊の「阿弥陀様」を表しております梵字を「キリク、またはキリーク」と申しまして、その文字を卒塔婆に書いております。 ※他宗派では、その宗派のご本尊の梵字を使います。

<阿弥陀如来(あみだにょらい)キリークのお力> 大慈悲に浴して一切の苦難厄難を逃れ、 また福徳長寿が授かります。

卒塔婆に書いてあるキリークですが、ご自宅のお仏壇のお 位牌にもご戒名は書いてあるものの、そのご戒名には梵字が 書かれておりません。 梵字のキリークは仏様そのものを表しますので、お仏壇の ように阿弥陀様が居られる場所にはキリークは必要ありません。
逆に、お寺の納骨堂はご本尊として仏様が安置されており ますが、各家々の納骨堂(お霊家)内には阿弥陀様を祀って おりませんのでキリークの書いた卒塔婆をお供えいたします。

また、ご葬儀なども同様に満中陰(49日)までは、故人 様が真の仏様にまだなっておられないので、白木のお位牌に梵字を書いたお戒名を書き お祀りし、満中陰(49日)が過ぎ、お浄土で仏様にな られましたら、梵字のない 塗り位牌や繰出位牌 (写真掲載)に書換えて、 お祀り致します。
塗り位牌 繰出位牌
塗り位牌
繰出位牌



お数珠の玉数の意味
 浄土宗で使用致しますお数珠(お念珠)を、日課念珠と申します。法然上人の弟子の阿波之介という和尚様が考案されたと伝えられています。  
南無阿弥陀仏と念仏を唱え、その唱えた数を数える道具として考案されたのです。男女で玉数が違うのですが、男性用を三万繰日課念珠(さんまんぐりにっかねんじゅ)と申し、二つ輪が輪違いで繋がり一方が27個、もう一方が20個、玉があります。そして、房が二つ下がり、丸い房玉が6個、平たい房玉が10個ございます。 念仏を一回唱える毎に玉を一個爪繰り、全ての玉を掛け合わせると、
27×20×6×10=32,400回(煩悩の数108の300倍)念仏を唱えられるのです。
三万繰という名は32,400回から来ています。

女性用は六万繰日課念珠(ろくまんぐりにっかねんじゅ)といい、男性用の2倍の 64,800回念仏を唱えるのです。  

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・・・と何万回も念仏を唱え、西方浄土に極楽往生する。  まさに、日課念珠は浄土宗の教義を表しているといえます。

これをお読みになり、慌てて御自分のお数珠を御確認された方もおありでしょう。そして、文面と違うお数珠をお持ちの方は、少々慌てられた方も居られるやも知れません。
そもそも、お数珠を御自身がお持ちになる機会が、急な訃報により、葬祭会場で購入されたり、亡き故人の形見であったりと、さまざまな背景で御自信の手にございます。また、付け加えますと、本来は、お数珠は宗派によりまして、形が違い、作法が違います。

では、上記説明の浄土宗のお数珠でなければいけないのかと申しますと、そうではございません。むしろ、形や状態が違えども、仏様や御先祖様に、南無阿弥陀仏とお念仏する心が必要なのです。

そして、この先、御自身がお念珠を新しく購入する機会や、お子様方が独立する際などにお分けするなど、そのような機会ができましたら、そのときは、浄土宗のお数珠を購入されればよ いかと存じます。   
合掌  
閻魔 ( えんま ) 様とは・・・
ちまたのお話に「閻魔様(えんまさま)」が死者の裁きの番人として出てきます。この世の行いが良いと、あの世(お浄土)に送り、悪い行いの者は地獄へ送るといわれています。
閻魔様は十三仏のお一人で、中陰の期間の5七日(ごなのか)の守護仏です。
しかし、死後の世界は、この世の我々には、目にすることは出来ませんので、閻魔様はこの世の我々にも見えるように姿を変え、お見守り下さっています。


そのお姿が、「お地蔵様」です。空想の閻魔像は怖い形相とされていますが、実際の身近におられるお姿は、お優しいお地蔵様でした。いつでも、あの世に導かれるようにと、この世の者が、戒めとして、閻魔様の怖い裁きの逸話像を作ったようです。



阿弥陀様の他に、祀ってある仏様は・・・


阿弥陀様に向かって左側が、「 法然上人 ( ほうねんしょうにん )
阿弥陀様に向かって右側が、「 善導大師 ( ぜんどうだいし )


法然上人は、浄土宗を開いた高僧です。
また、善導大師は唐(中国)の僧侶で、阿弥陀仏と念仏を説かれていました。その善導大師の御文に導かれ、法然上人が、浄土宗をお開きになったのです。

本堂両脇(東側、浜側)に、二仏(法然上人像と善導大師像)が鎮座されており、お祀り致しておりますし、皆様の御自宅のお仏壇にも同じく、二仏が鎮座されております。
また、本堂では、この度、分かりやすく、木札をたてておりますので、御覧下さい。




お十夜の由来
お十夜 ( おじゅうや ) 」は、十一月から十二月にかけて、 全国の浄土宗寺院で、ひろく行われる 念仏会 ( ねんぶつえ ) です。   「十夜法要」「十夜講」「十夜念仏」などともいい、もともとは陰暦の十月五日の夜から、十五日の朝まで、十日十夜にわたる法会でした。  この法会は、浄土宗で最も大切な経典の一つ「無量寿経」の巻下に、

「この世において十日十夜の間善行を行うことは 
仏の国で千年善行をすることよりも尊い」

と説かれていることによります。

お十夜は、お念仏の尊さを知り、感謝の気持ちを込めて、これをお称えする大切な法会です。

今日ではその期間も、十日間から五日、三日、あるいは一日と短縮されて行われていますが、この大切な念仏会に参加し、仏の国での千年の善行にも勝る善行を、是非積んで頂きたいものです。

葬儀と告別式の違い
昨今のお葬式には、葬儀屋さんが喪家の意向を受け、お葬式を執り行いますが、 その際に、司会者が付くのが常のようです。

その司会者が、開会の際に「○○家の葬儀並びに、告別式を・・」と言われますが、 さて、葬儀と告別式との違いはなんでしょう。

葬儀とは故人の冥福を祈り、成仏することを願って遺族や近親者が営む儀式です。   また、仏教においても重要な意味があり、故人が仏道を修めるために、仏弟子として、 この世の塵祓いをし、お浄土に送り出す儀式のため、大切な儀式の一つとなっています。   

一方、告別式は故人の家族、友人や知人が、故人と最後のお別れをする儀式です。 本来は葬儀に続いて会葬者全員で、遺骨を墓地に埋葬する前に行う儀式でしたが、 最近では、一般の会葬者全員で、故人に焼香をすることが、中心に行われるようになりました。  

このように葬儀と告別式はまったく違った意味を持つ儀式のため、 葬儀が終わると僧侶はいったん控え室に戻り、 あらためて入堂して告別式を行うのが正式の形ですが、 現代の諸事情や風習の流れから、葬儀と告別式を同時に行うことが多くなってきています。

中陰とは
読んで字のごとく、陰の中のことです。同じ「かげ」でも闇夜の影のことではございません。
仏教の陰とは、「お陰様」の意になります。

お陰様とは、我々人間には到底及ぶことの出来ない仏様のお力によって守り導かれる有難さをいいます。
人間は、往生(死去)すると、すぐにあの世までたどり着くのではなく、七日ごとに諸仏のお智恵を頂きながら、一歩ずつお浄土に昇って行くとされています。そのお智恵を授けて下さる仏様が、十三仏で、下記の表の仏様になられます。

十三仏 忌日 化身王
不動明王 太山王( 7日目) 秦広王
釈迦如来 二七日(14日目) 初江王
文殊菩薩 三七日(21日目) 宋帝王
普賢菩薩 四七日(28日目) 五官王
地蔵菩薩 五七日(35日目) 閻魔王
弥勒菩薩 六七日(42日目) 変成王
薬師如来 七七日(49日目) 太山王
他の仏様は、年回の守護をされます




また、化身王とは、インド仏教神話に出てくる王様で、我々人間の戒めのために描かれた空想仏になります。特に五七日の閻魔様は有名であります。
即ち、中陰とは、故人様が、その守護仏のお智恵を頂戴し、お導きを受け、七日ごとに次の中陰の世界に進んでいくということです。
そして七回目の七日法要(四十九日目)にようやく真の仏様になられ、お浄土にたどり着かれます。その故人様のあの世への無事の安堵が法要という儀式になるのです。
ですから、形だけ、四十九日法要を営んでも、真の四十九日目が来ないことには、まだ、故人様は、あの世までたどり着かれてはおられません。

しかし、この世の我われの生活様式から、本当の四十九日の日に法要は難しく、若干早めて致す事もしばしばです。
だからといって、法要は終えたとしても、四十九日目までは、故人様の行く末を案じ、お念仏して頂かねば、御供養にはなりません。また、御遺族様に於かれましても、故人様の往生を看取り、命の儚さと無常の悲しみをあじわいます。その悲しみは、決っして癒えることはございませんが、不思議な事に、四十九日の法要を区切りとし、普段の生活に戻ろうと前向きな心にさせて下さる、仏様のお慈悲を感じます。
泣く事も御供養なら、泣き終える事もまた、御供養と、仏様が教えて下さいます。

僧侶の衣とお袈裟について

日頃、皆様お檀家様へのお参りの際の服装といえば、白い着物の上に、袖丈の長い着物で更に袈姿となっております。正式名称では、白い着物を白衣(はくえ)、その上に着る衣を、黒色は黒衣(こく え)、色物は色衣(しきえ)と申し、黒衣は、お通夜などの法要に、色衣は儀式法要に着用致します。

覚えておられる方もいらっしゃるでしょうが、昔は私の色衣は「緑色」でした。今は、「紫色」でござい ます。この色の違いは、修業年数や寺院運営事業実績等、総本山光明寺での、適用修行を致し、本山 より認められ僧になり、初めて、紫色の衣「紫衣(しえ)」が着用できます。
更に、修行を続けた僧には、紅梅衣(こうばいえ)といって、紅色の衣がございます。私の様な愚僧に は、到底紅梅衣に到達することは出来ないでしょう。

では、お袈裟 について、御説明致します。 古来昔は、僧侶になるために、出家した者は、この世のすべての欲望を捨て去ったものであるから、着るものも、きめられた数のものしか持つことが許されませんでした。 しかも、その材料は、一般民衆が不必要になって捨てた布切れを、廃物利用とでもいうべきもので あったので、 こういった布切れを集めてきて、それらを洗った後、適当な大きさにつぎ足し、壊色(え じき)と呼ばれる、原色を避けた色に染められました。 

この壊色という言葉の原梵語がカサーヤで、これを漢字に音字したものが 「袈裟」 であります。 ですから、現在の お袈裟 でも、その名残を残し、一枚布で作るのではなく、パッチワークのように、 何枚もの織物を繋ぎ合わせ、お袈裟 が作られております。

では実際の、お袈裟 ですが、御法事等に使います お袈裟 を、五条袈裟(ごじょうげさ)、御葬儀や大 法要で使うお袈裟を、七条袈裟(しちじょうげさ) と申します。
五条、七条などの数は、パッチワーク上に縫い合わせた、布の数の多さに由来するものです。 このような、雑学を以って、御法事などのお参りの席につけば、また違った物の見方が出来るやも知 れません。
鐘の音
「音の良し悪しは梵鐘の肉厚や、材料の銅と錫(すず)との配合割合で決まります。造った後、すぐに鳴らさず半年、1年と置いて養生すると音色はさらによくなります」。と職人さんの話です。

材料の銅と錫の配合比率は、ふつう6対1ほどらしく、錫の量が多いほど音色は高音になりますが、梵鐘はもろくなって割れやすいとのことです。
頑丈で、しかも顧客の求める音色をつくり出すのは至難の業でしょう。経験と勘に加え、現在では、これまでに製作した梵鐘の音の波形や振動数など、過去に蓄積した研究資料がものを言うようです。
泉福寺除夜の鐘 更に、歪みのない形は「溶かした材料(湯)を鋳型に流し込む火入れの瞬間に決まる」と職人はおっしゃいます。

流し込みの勢いが強すぎても弱すぎてもだめで、湯の色で温度を見ながら途切れずさっと流すのがコツだそうで、匠の経験と勘が頼りです。
火入れが順当で肉厚が整った梵鐘は、決して音が濁らず余韻も長く響く、とのことです。

また、梵鐘の吊り下げ方、高さ、鐘を打ち鳴らす撞木(しもく・・打つ際の木の棒)の種類、周りの環境で音色は更に変わります。
そのお寺でしか聞けない唯一の鐘の音と思えば、感慨深いものです。
鐘の音は無常を説く「み仏の声」だといわれております。耳と心を澄まして聞けば、さらに造り手の情熱も伝わってくるでしょう。
除夜の鐘ってどういう意味?
大晦日のことを別名「 除日 ( じょじつ ) 」と言って、その年が終わり、新しい年 が始まる
「旧年をのぞく日」という意味です。
その除日の夜で「除夜」、その時つく鐘だから「除夜の鐘」と言うわけです。






鐘撞きの数は何故108つ?
人には、

物事や世界を認識する6つの物理的な欲 
六根 (眼・耳・鼻・舌・身・意)
悟りを開く妨げとなる6つの心理的な欲  
六塵 (色・声・香・味・触・法)


合計12の煩悩があるのです。

これには、それぞれ好・悪・平の3種類の状態があるので合計36個。 さらにそれらは、過去・現在・未来と3つの時間があるので、全部で108つ、 という事になります。 

つまり、生まれて、ずっと、煩悩の塊です。だから、反省と後悔をし、なのに、 更なる幸福を願い求めます。生きている限り、人間なのです。 泉福寺では、除夜の鐘の最初に、愚僧の私がつきます。

いの一番に、煩悩多き私への戒めの証です。