2025年 越年【臨時】泉輪

お浄土への道のり

 泉福寺では、年六回の法要を勤めておりますが、その中でもお十夜法要が最も盛んで重要な法要となっておりますので、そのお十夜法要が終わった今時分は、少しほっとした気持ちとなっております。
 その穏やかな気持ちで辺りを見渡してみますと、紅葉が進み、底冷えを携えた冬将軍が待ち構えている気候へと変わっていることに気づかされます。
 そんな中、過日、九州国立博物館で開催されておりました、「法然と極楽浄土」という展覧会を拝観してまいりました。平日にも関わらず、大勢の観覧者が訪れておりました。当然お寺の方と思しき方も相当数おられたので、皆様の勉強熱心なお姿も垣間見ることができました。
 その展示物の中に浄土宗総本山知恩院(知恩院派本山)所蔵の阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)の絵図がございました。その絵図は、今まさにお亡くなりになりそうな方の傍で僧侶が読経をしており、そこに勢至菩薩と観音菩薩を先頭に、阿弥陀様が多くの菩薩様や天女を引き連れお迎えにくるという内容を示しております。
 ここで解説しておきますが、お経をあげている僧侶の傍に横たわる人は、実際にはまだお亡くなりになっておりません。今で申す危篤状態で、もう間もなくそのお命が終わりを迎えようとしている状態なのです。そのまさに死を受け入れようとする方に差し上げるお経が本来の枕経なのです。今は、私ども僧侶はお亡くなりになられてしまった方のお傍で枕経を称えますが、本来の浄土宗の教えは、亡くなりゆく方の魂を間違うことなく、阿弥陀様にお迎えに来てくださいますように願い祈るお経が枕経なのです。ただ実際には、死亡を確認する医療が介入する法律をもつ日本では、亡くなり行く人の傍に僧侶が立ち入ることは出来ず、結果、お亡くなりになって枕経を授けることとなっております。
 では、知恩院所蔵の阿弥陀二十五菩薩来迎図に話を戻していきましょう。その絵図には題名通り二十五体の菩薩様がお迎えに来られます。そして中には、銅鑼(どら)や琵琶、笛等の楽器を携えている菩薩様も登場しています。
 それには意味があり、お亡くなりになられてから死者の魂は七つの段階を上らなければならず、しかも一つ段階を上るのに七日も要す途方もない試練を経てお浄土まで向かわないといけないのです。七段階、7日間の四十九日の修業は、お亡くなりになった人には迷いもあるだろうし、人間界の未練もあるだろうし、一筋縄では安々とたどり着けないお浄土への道なのです。そこに多くの菩薩様がお導き下さり、随行下されば、良き助言やお智慧を授けて下さり、スムーズにお浄土までの道案内をして下さると言われております。
 時に苦しい時も、悲しい時も菩薩様が笛や太鼓で心をもてなし、気持ちを前向きにして下さるというのですから、願ったりかなったりです。がしかし、そうは簡単には問屋が卸さないのが世の中です。先ほどから、二十五体の菩薩様がお迎えで、笛や太鼓、数々の楽器が鳴り響きと説明致しましたが、その総勢のメンバーはお迎えメンバーとしては、フルメンバーの最上級、最強メンバーなのです。その極上メンバーがお迎え頂ける人は、この世で深く阿弥陀様を信心した人とされています。そしてその信心の証が、お浄土への道のりの難易度を左右する物差しとなるのです。また、特に信心深い人には、早来迎(はやらいごう)と申しまして、二十五体の菩薩様が雲に乗り超スピードでお迎えに来て下さるという解説があり、これが八百年以上前に浄土思想として定着していたのですから、面白いものです。
 ことあるごとに「南無阿弥陀仏」の六文字を称え、心に阿弥陀様を宿すだけで、大勢のの菩薩様がお迎えに来て頂けるのですから、場所もお金もかけず信心できる法然上人が説いた浄土宗が大衆に受け入れられたことは納得がいきます。あとは、信心の深さや、非業非道をしていないかと、お浄土の会議により、お迎えにくる仏様の人数、携える楽器の数、お迎えにくるスピードが変わってまいりますので、これが分かれば、皆様の信心のし甲斐もあるのではないでしょうか。
 そして、皆様は住職によりお戒名を授けて頂きあの世に向かいます。あの世では、そのお戒名により、宗派が分かれているので、この人は〇〇宗のあの世へ向かっていこう、あの人は▲▲宗のあの世へ向かわねばならない、そして私どもは西方浄土の世界へ向かって仏様が連れて行って下さるのです。
 このお戒名がなければ、確かに誰でも救われ、あの世に行けるものの、どの方向に行けばご先祖様と再開出来るのか、目印となるお戒名がなければ分からなくなるので、だからお戒名が必要なのです。広い広いお浄土の世界で、自身の行き先が分からなくなる不安を知れば、お戒名の必要性をご理解頂けるのではないでしょうか。
 更に、話を九州国立博物館に戻しますが、阿弥陀二十五菩薩来迎図の解説文に興味を引く文面が添えられておりました。信心のない否道徳の人のお迎えの様子が添えられていたのです。
 否道徳であっても浄土宗の教えでは地獄に落ちることはありません。しかしその場合は、お迎えがお浄土から来るには来るのですが、阿弥陀様はじめ菩薩様の随行はなく、ただ、蓮の台座のみが迎えに来るのだそうです。当然智慧となる仏様が居ないのですから、四十九日間のお浄土への道は険しくなることは想像に難しくはないことでしょう。
 それでもって、お戒名も頂いていないとすれば、行先も定まらず、途方に暮れる様子が思い描かれます。
 それくらい四十九日間の中陰期間は重要な意味をもたらせているのです。仏教儀式だけに趣をおけば、四十九日目までに納骨をしないといけないという区切りのようにお感じになられる方が多い中、お亡くなりになられた故人様の魂は、一生懸命お浄土へ向かって旅をされているのです。
 確かに私どもはまだ一度も亡くなった経験がございません。それ故、先人の高僧は、信心の意義を絵図や法話で残して下さったのです。その意義を自身の心の礎にするのか、嘘ら事(うそらごと)と聞き流しながら生きるのか、何を選択するかはあなた次第です。
がしかし、心のどこかに信心の意義を置いておくことは、そんなに重い荷物ではないと思います。だとするならば信心を糧にお過ごしになり、いつか必ず行くお浄土への智慧にすることは意味深く、決して無駄なことではないと思っております。
 本日はこの話をもって、一年の締めくくりにしたいと思います。この一年つたない「いずみ」拝読感謝申し上げます。
 また、どなた様も泉福寺に仏心賜りありがとうございました。愚僧私と愚弟弘円二人より、厚く御礼申し上げます。

合掌
輝空談

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