先日、父の名代として、山口県周南市にお参りに行かせて頂きました。周南市の地名の由来は、周防の国の南部という意味で、山口県の瀬戸内海沿岸の広い地域を指す名称として使用されていたことが由来のようです。
私はその周南という名前から、土地の歴史背景を考えるより、中国の浄土の祖、善導大師を思いおこしました。法然上人が浄土宗をお開きになるきっかけとなった中国の僧侶が善導大師です。その善導大師のお戒名が終南悟真善導大師(しゅうなんごしんぜんどうだいし)となっているのです。文字こそ違いますが「音・オン」が同じことから、単純に善導大師を思い浮かべました。そして、善導大師と同じ音を持つ周南市に出向き、お念仏を称える機会は、お念仏のご縁を考える十分な要素でした。僧侶としてはご存じの通り新米で、休日のみの宗教活動ではなかなか父のような物事への働きを考え尽くすことはできません。今、本業として働かせて頂いている保育士の世界も、先輩皆さまのように上手に保育が出来ません。全てにおいて完全な半人前ですが、皆様のふところ深い心で成長を忍耐強くお見守り頂き、成長を信じてお待ち頂いていることに感謝するばかりです。
そして、当たり前ですが法要のたびに、私は毎回「南無弥陀仏」とお念仏しております。南無阿弥陀仏の分かりやすい意味は、阿弥陀様を信じておりますという意味になります。
仏教では、阿弥陀仏を信じる心は、私の心を指しているのではなく阿弥陀仏の心を指しております。要するにお救い下さる阿弥陀様の心を信じております、ということになります。一般的に、阿弥陀仏を信ずる心というのは、本来は私たちが持たねばならない心なので、その心を「機・き」といいます。それに対して、阿弥陀仏の本願の心を「法・ほう」といいます。この機と法と一体になったのが機法一体(きほういったい)の総称で、それが南無阿弥陀仏なのです。その教えの根源となった善導大師のお戒名の音と重なった周南市訪問は、改めてお念仏を考える時間となりました。皆様が私を信じて僧侶としての成長をお持ちいただく心もまた、阿弥陀仏の法の心と重なり、その思いに報いることが出来るように益々の精進をせねばと、この暮れに考えたのでした。
願空(副住職)のちょっとひと言
合掌