弘円卒論  終わりに(一部分)

 ようやく、二年間のここ西山短期大学、保育科での学びを終えようとしている。あっという間とも感じる反面、長く重い時間だったとも正直感じる二年間だった。
 皆さんもご存知のとおり、二年間の随身しながらの仏教科を卒業し、この仏教保育科への再入学だった。随身の労務の学びを経験しながら、並行して仏教保育科の学生生活は、自分にとって大変感慨深く思う二年間だった。
 当初仏教科を卒業して進路を考えるにあたり、夢である保育士の仕事はゆるぎないもので、子供と関わりながら働きたいと保育士になるための短大進学選択は自分にとって当たり前のものだった。その進路を考え始めて、初めて知ったのが、通常短大での保育科と仏教保育科の違いだった。自分は浅はかにも、深く考えず、僧侶の資格がある自分には仏教保育科が適切な選択だと思い、再入学を決意した安直な判断だった。
 ところが、入ってみると、僧侶だから人より仏教保育の指針理解が秀でているかもと思っていた甘い考えは打ち砕かれ、何も理解できない、何も判断できない自分の愚かさばかりを目の当たりにする毎日だった。それどころか、保育士の夢を追うよりも、毎日の提出レポート、単位取得、実習と、ただ目の前のことをやり終えるばかりで、何も心に養うものはなかったといってもいいくらいだ。そんな中で、この卒論がやってきた。いつものようにやらねばならないから、ただやる作業であったが、いざやり始めると、この二年間の授業、同期との会話、実習で触れ合った園児の笑顔が思い出され、そして、ご指導して下さった西山短期大学の先生方の言葉が重なってきた。教科書の文面を読み、頭で機械的に蓄積されてきたデーターは、二年間を振り返ってみると、実習の為に必要な大切な言葉であり、模擬実習で力説された言葉がこの卒論で基礎に立ちかえる初心を伝えるための言葉だったのだと、振り返り振り返りしながら、思い出されて、本当の意味と教科書から学んだ知識とが重なり、初めて心から納得しながら卒論を書き進めることが出来た。
 この卒論がなければ、この短大で教えてもらったことの貴重さに気づかなかっただろう。この卒論を書くことで保育士の仕事は、賃金を得る仕事以上に大切な意味があったのだと気づかされた。園児の成長と教育にかかわる保育は、園児を育てるだけでなく、保育士としての自分を育ててもらっているのだと思う。その育ててもらった自分という保育士が園児を更に育てるという、常にめぐっていく心の輪廻の保育だと自分は思う。園児の真っ白な魂に、自分という保育士がほんの少し色付けして、その色をもって園児が大人になる準備をする、その責任は大きい。その能力は正直まだ自分にはない。しかし、この西山短期大学の先生方から学んだものと、経験したものは自分の財産として園児に教えていく義務があると思う。そんな気持ちに気づかせてもらえたこの卒論の機会に感謝したい。
 そしていつか、今より成長した保育士になっている姿を皆様にお見せ出来るようにこれからも努力邁進していこうと改めて決意した。これからもご指導して頂くことを願うと共に、今までの感謝を皆様にお伝えし、この卒論を終えたいと思う。二年間ありがとうございました。

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