令和4年花まつり【臨時】豆知識

お寺豆知識・泉福寺開山(泉福寺の始まり)

 本山新聞「ひかり」に本山の部長様による投稿記事がございましたので、抜粋いたします。
 法然上人は、1212年1月25日に80歳でお亡くなりになりました。その後しばらくは庵のある東山に安置されておりました。しかしお念仏が広まることをよく思わない人々が、15年後の1227年6月22日、法然上人のお墓を暴いて、ご遺骸を鴨川へ流すという暴挙を企てました。それを聞きつけた弟子たちがいち早く棺を掘り起こし、ひそかに東山から太秦広隆寺の来迎房円空の庵にお移しし、仮安置致しました。
 ところが翌年地震があり、法然上人の棺から光が発せられ南西の方向を指しました。来迎房が、その方向を確かめてみると、そこは粟生の念仏三昧院(後の総本山光明寺)でした。その頃は蓮生法師から後を任された幸阿弥陀仏(こうあみだぶつ)が住んでいました。幸阿弥陀仏もその光に気づき、昼のような明るさに驚き拝んでおりました。来迎房と幸阿弥陀仏は、この光は法然上人のご遺志に違いないと確信し、弟子たちに話して太秦から粟生の念仏三昧院(後の総本山光明寺)へ棺を移しました。      (一部省略)
 
と、ここで登場する、幸阿弥陀仏こと幸阿上人(こうあしょうにん)が、何とこの泉福寺をお作りになられたお方なのです。
 泉福寺開山の歴史は古く、総本山光明寺第三世(三番目の住職)であった幸阿上人が、九州行脚中に上八村(こうじょうむら)で錫杖(しゃくじょう)を止め、天福元年(1233)4月念仏教化の庵を結びました。それが泉福寺の始まりです。
 法然上人の入寂後、僅か21年目に泉福寺は開基しています。その後約400年前に今の鐘崎に移されました。その記念樹として植えられ唯一現在に残っておりますのが、本堂前の榎(えのき・県の天然記念物)でございます。
 そのような約800年というとてつもない歴史深いお寺が、皆様の泉福寺であると知ることも、仏心を深め、ご供養の心を更に育むものと存じます。

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