令和4年 盆【臨時】泉輪

信念の行き先

 酷暑の時期にて、皆様お体ご自愛されていますでしょうか。天から容赦ない照りつけにさいなまれ、焼けたアスファルトとコンクリートのビル群からも熱の放出を受け、グリルの中に居るように体が焼け付く毎日です。
 そんな極暑のオアシスになるのが梅雨の一雨ですが、観測始まって以来の短さの梅雨となってしまい、地球を、とりわけ日本をいたわる雨には恵まれませんでした。しかし、それに反して線状降水帯が発生し、反乱的降水量で命の危険を伴うのですから、地球はどうなってしまっていくのでしょうか。
 地球が、そして自然が壊れていく心配の中、人間の心も壊れてしまったかと思う事件が勃発してしまいました。ご存じのとおり、安倍元首相が銃弾に倒れたのです。犯行に及んだ背景は、新興宗教教団への逆恨みであると、言葉にすれば単純で簡単な事情です。
 ではこの事件の背景にあるとされる新興宗教の教団とはどのような団体なのでしょうか。
 とは申しましても、私ども宗教団体に属し、その教義にのっとり宗教活動をしている僧侶にとって、実際、他の宗教団体教義の内容を知る術はございません。それどころか自分の宗教、私の場合は、法然上人が開かれた浄土宗の流れをくむ、西山上人が確立された西山浄土宗ですが、それすら未だ勉強半ばにて、学んでも疑問がわき、理解しても次なる奥義が表れ、容赦なく自分の無知を突きつけられます。
 また、私は西山浄土宗のお寺に生まれ、その環境でそのまま僧侶になったので、西山浄土宗に疑問や反感という感情を抱くことなく、今まで一宗教で人生を過ごしてまいりました。この「いずみ」を読まれる檀家様も、ご先祖様がこの泉福寺でお祀りされ、そのご縁で泉福寺を菩提寺として今もご信仰されてまいりました。
 私もそうですが、皆様も、たまたま西山浄土宗のお寺と長い流れでご縁があり、ただそうであるという事実をたいして感じることなく、当たり前として今を過ごしておられるのではないでしょうか。
 そんな折、残忍な事件が起こった故に浮上した、新興宗教教団の内容の実像が報道されてきました。
 報道では、合計一億円の献金と教義の聖書が三千万円と目を疑うような数字の羅列には驚かされました。それを実行した信者の神経を疑う思いに駆られた方が大半なのではないでしょうか。そんな大金をはたいてもいいと思えるほどの宗教と信仰とは何なのでしょうか。そもそも信仰とは人間にどれくらい必要な行為なのでしょうか。
 信仰と改めて言葉や文字にすると、現代の生活からかけ離れた修行僧だけの要因に感じるかと思われるかもしれませんが、簡単に申すと、仏様やご先祖様に当たり前に手を合わせることです。仏様やご先祖様は、自分にとってとても大切な価値や意味をもっている対象であり、その対象に無条件に心をゆだねる態度をいうのです。手を合わせる何気ない行為を繰り返すことによって、しだいに自分の内部に真の心が現れ、嘘偽りない言葉を神仏に語り始めます。と同時に救いを求め願い、祈るのです。その行為の作法が皆様の場合、仏教での手順にのっとり、西山浄土宗の教義に習い、手を合わせているのです。他の宗教、他の宗派でも手順や作法は違えども、根底は自分の内なる真の嘘偽りない言葉を神仏に語り、救いを求め願い祈ることは変わりないと思います。
 その行為には、お金も時間も場所も必要ありません。だからこの報道される新興宗教に躍り出る数字の羅列に驚くのです。
 それでも、容疑者の母親は、この新興宗教の団体を信頼しました。そして、残念なことに、信仰と信頼を混同してしまったのではないでしょうか。
 信頼と信仰の区別境界線はどこにあるのでしょうか。よく母親の愛情は見返りを求めない無限の愛情などと言われます。親子でも他人同士でも、人間と人間との間に形成され、相手に全てを任せ、疑わない心の働きが信頼であります。任せきるという点で信仰と共通するように見えますが、信頼の対象である人間は所詮人間ですので、欠点や欲、感情もあるのですから、相手に任せる信頼は、つねに裏切られる危険と感情不安、感情不快の可能性が付きまとう点では、信仰とはまったく異なります。
 信頼していた人に裏切られた話は掃いて捨てるほどありますし、思った結果にならない話もごもっともで、見返りを求めない無限の慈愛満ちた母親というイメージとは全くかけ離れた家内が、しょっちゅう私の横で息子たちと怒鳴りあっています。
 しかしこの不格好で完璧でない、上手くいかない経験こそが大切であり、苦い失敗と後悔が人間を新しく形成することを知らねばなりません。それを容疑者の母親は新興宗教の教団を信頼し、上手くいかないこと、心配なことを高額な献金することで救われると勘違いしたことが不幸を生んだのです。お金で幸せが買えるのなら、お金で失敗を免れるなら、そしてお金でやり直せるのなら、だれでもそうするでしょう。誰でも幸せになれるでしょう。誰でも苦を知らずに過ごせるでしょう。
 どうすることもできないのが人生です。思うとおりにならないのが人生です。その経験が大切であり、その一切が必要で無駄のない出来事であることをこの容疑者と容疑者の母親が知っていれば、この事件は起こらなかったのかもしれません。
 偶然の出来事ではございますが、安倍元首相の通夜、告別式の同日、同時刻、私は檀家さんの葬儀に立ち会いました。しかも、その会場が、安倍元首相のおひざ元の下関でした。
 参議院選挙終了直後にて、下関の地にはまだ、あちらこちらに選挙ポスターが色鮮やかに掲示されていました。またそれとは別に、地元の応援として、安倍元首相を日頃から敬愛し、いつも貼り続けるポスターが若干の色あせの面持ちで掲載されていました。選挙時期だけにかかわらず、いつも、どんな時でも安倍元首相のポスターと共に、いや安倍元首相なんて遠回しな言い方ではなく、安倍さんとして山口県の人は心の礎にしていたのでしょう。
 その思いは、政治家信念への信頼を超えた、信仰に近い熱い思いを感じました。それ故に、山口県民の人はショックと落胆は計り知れないでしょう。
 そして、私は不謹慎にも、ほんとに不謹慎にもある想像をしました。
 凶弾に倒れた人が、山口県代表の中央政権政治家である安倍さんではなく、福岡県の政治家であれば、福岡県民は山口県民と同じ落胆感情を抱くのだろうかと思いを馳せました。事件への許しがたい念を最大限に抱きつつ、福岡県民の政治への信頼と政治家の信念をうかがう今日この頃でありました。

合掌
輝空談

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