令和4年 越年【臨時】泉輪

「むかぁ~し 昔」

 急に寒くなり、その寒さに体が追い付かない日々をお過ごしのことと思います。その上、暮れというだけで何とも知れぬ慌ただしさが、余計に世知辛く感じさせるものでございます。くれぐれも慌ただしさにより、事故がございませぬよう、無事に年の瀬を迎えられますように祈念申し上げます。
 さて、長男が保育園に勤務していることはご周知のことと存じます。それ故、保育に関する月刊誌、絵本、教材を家のあちこちで目にするようになりました。その本の一冊を何気に見てみますと「てぃ先生」の本がありました。
 この聞きなれない「てぃ先生」とは、現役の男性保育士のペンネームで、本名は「くらつ たかひろ」さんという方です。日頃の子ども達の関わりの中、あっと驚く子どもとのエピソードをメモ的に記録したものが書籍となっていました。
 その一つのエピソードです。絵本の読み聞かせをしていたところ
 「むかぁ~し、昔、あるところに・・・」という日本昔話の最も定番中の定番の滑り出しのセルフを聞いた女の子が、「個人情報があるからそんな言い方になるのね」と言ったとか・・・
 私は、ひっくり返りました。その短いセリフから、漠然とした表現の裏に個人情報へ思いを巡らしたとは、素晴らしい。俳句をする私にとっては、とある番組の俳句の先生のセリフをお借りして申しますと、映像をそこまで飛ばすとはすばらしい才能の持ち主と言わざるを得ません。子供の発想力の柔軟さには頭が下がります。
 皆さんも「むかぁ~し、昔、あるところに・・・」というところで、脳が何か働いていますか。私を含め、どなたも心が一ミリも動いてはいないと思います。
 で、私はあえて「むかぁ~し、昔・・・」を考えてみました。そこで思い出したのですが、昔、鐘崎のお寺葬儀は、故人様のお家から、ご親族が棺を自分たちで担いで持って来ていたなと思い出しておりました。それも低く持つのではなく、肩の高さに担いで運ばれておられました。頭のほうが重いので若い人が持ち、足のほうをご年配の方が持ち、六人ほどで担がれておられました。そして、本堂の前に到着すると、棺を抱えて三周ほど境内を練り歩いておられました。ぐるぐる回って、家への帰り道を分からなくして、迷わず浄土に魂が昇ることを願っているのかとそんなことを考えました。
 それと合わせて思い巡らせてみると、故人様の茶碗を玄関先で割るのも、もう帰って来てもご飯食べられないから、あの世に行きなさいという意味なのか、霊柩車の発車の長いクラクションは故人様のこの世の未練を断ち切る儀式なのか。また今でこそ献花はお生花でされますが、一昔前までプラ製の立て花輪を外に並べておられました。
 それこそ昔は三角の布を故人様のご遺体の頭にかぶらせていましたが、そのような死装束も、今ではコントでお目見えするほかはなく、過去の産物となってしまいました。
 また食事に関しても、昔は仕出し屋やテイクアウトなどというものは無かったので、ご親族や町内会のご婦人が振るって食事の炊き出しをしておりました。そういう意味では、地域や親族の結束と助け合い精神は、今よりも強かったようにも思います。
 ただ、全てが手作業にて、疲労度は現在よりも高く、ご苦労も多々おありだったことでしょう。それこそ泣く暇もなくて、忙しさが悲しみを紛らせてくれたのかもしれません。
 それに引き換え、現在の葬儀は、過去の風習よりも故人様の生前のご意向や、喪主様の思いが反映され、個々の葬儀が特色を持っております。
 しかし儀式の捉え方は自由であれど、ご葬儀で故人様を偲び、懇情の別れの悲しみの中に、命の重みを考えることは、どの時代も同じであると思います。そして私という命は、多くのご先祖様の成り立ちがあって、この世に生を受けたことをご葬儀は教えてくれます。
 私はこの鐘崎の葬儀を三十年住職として勤め、その変遷を今なお見届けております。次の世代の弘円の時代も時と共に葬儀の形態が更に変わっていくことでしょう。ただし形態が変われども、ご供養の精神だけは見失わず勤め続け、仏性の相続に専念してくれることを期待しております。
 そのうち、「むかぁ~し、昔・・泉福寺というお寺に輝空上人(きくうしょうにん)というお坊さんと、その鬼嫁がおりました」と、語り継がれていくのでしょうか。

苦笑合掌

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*