令和5年 お十夜【臨時】泉輪

世界樹への思い

 やっと秋めいてまいりました。国連事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した。」と語り、その言葉を体感した夏が、どうにか鳴りを潜めてくれました。暑さが苦しいと、うなってしまう夏が、何とか去ってくれた安堵を感じております。
 これからは温暖化により秋の季節が益々短くなると言われております。短い季節ならば見落とさずに、秋を拾い集めていかないと、あっという間に冬になるかもしれません。こぼれ落すことなく皆様、秋を楽しみましょう。
 さて、秋と言えば紅葉です。そして紅葉と言えば、全国津々浦々名所があることは存じておりますが、私はやっぱり京都本山光明寺の「もみじ参道」が一番美しいと思っております。今でこそ観光スポットとなり、旅行コースに織り込まれておりますが、私が本山職員をしている頃は、ほとんど参拝者がいない中、上も下も、前も後ろも、辺り一面、見渡す限り真っ赤一色という光景を独り占めできたものでございます。まさに圧巻の光景でございました。私の若かりし頃の懐かしい思い出の一つでございます。
それに致しましても、自然の働きにより、だれが教えずとも、一斉に色づく自然の姿は神秘的なものでございます。そして我々は赤の代表の、もみじ、黄色はイチョウと誰もが思い浮かべる風景を愛でる気持ちで喜びを感じますが、当のそれらの植物は、あの薄い葉っぱの組織の中で、色素という物質が懸命に活動しているのです。
 春から夏までは確かに葉っぱは緑色をしております。その色を発色するために色素の本質を知っておかねばなりません。葉っぱの色素には緑色素、黄色素、赤色素があるなか、春から夏までは光合成をして栄養を作る必要があり、緑色素ががんばっているために葉っぱが緑色をしているそうです。それが、気温が下がるにつれ、日照時間が短くなり、光合成で栄養を作るのではなく、幹に栄養を貯めこみ、樹が休眠状態に入ろうとするそうです。そうなると緑色素が少なくなり、赤の色素が増えるとのことで、我々の目には紅葉を楽しめるようになるとのことです。自然の営みは大地の力に導かれ、争うことなく、粛々と形を変える奥ゆかしさに頭が下がります。
 その自然への敬意は、太古の昔から信仰の対象とされてまいりました。それが世界樹(せかいじゅ)という考え方です。世界樹とは、インド・ヨーロッパ、シベリア、ネイティブアメリカンなどの原始宗教に登場し、世界が一本の大樹で成り立っているという概念です。世界樹は天を支え、天界と地上、さらに根や幹を通して地下世界もしくは冥界に通じているというように考えられています。
 その世界樹思想は各国の神話に登場し、世界中で語り継がれております。日本に一番近い国の世界樹思想は、インド神話のアクシャヤヴァタや中国神話の建木(けんぼく)があげられます。インド神話のアクシャヤヴァタは菩提樹の木を指しているようですが、中国神話の建木の木は空想の植物で現実にはないそうです。
 また不思議なのが北欧神話にでてくる世界樹はユグドラシルという木で、現在のトネリコという木を指しているようです。本来の学術分類はモクセイ科の落葉樹で、原産地は日本だそうです。北欧のユグドラシルは、日本原産のトネリコの近縁種である「セイヨウトネリコ」に属する木だそうです。ここで不思議なのが、「トネリコ」の名前の由来は、元は「大和言葉」からきており「戸塗り木(とぬりぎ)」が訛ったものだと言われています。大和言葉の知識もなく、戸塗り木が何を指しているのか皆目見当もつきませんが、日本の古い言葉が古代の北欧神話に登場する樹の名前と関係しているということは不思議なものでございます。
 一部の学者は、世界樹という概念が人類の思考の原点に植え付けられていると考えているようです。人類が誕生した当初、家というものを持っていない人類の祖先は約6千万年にわたり木の上で生活しており、その時代の彼らにとっては木々こそが世界の全てであったと考えられるからだそうです。そのため、この世界は巨大な木で出来ているのだという集合的無意識が、現在の我々に、今でも無意識の中、残っているのだというものです。
そうであるならば、世界が一つである集合概念を主とすれば、世界中の領土争いの紛争など無くならないものでしょうか。今なおロシア軍とウクライナ軍が戦闘を続けています。加えて一度は平和協定を結んでいたイスラエルとガザ地区が互いに攻撃し合っています。それぞれの国、それぞれの部隊には強く主張する言い分があり、一言では語り尽くすことのできない長い歴史があることは承知いたしております。
 しかし泣き叫ぶ一般市民、元の様子を想像することもできないほどに崩れ落ちた街並み、耳を覆いたくなる惨い殺し合い、その中に正義を探すことはこの上なく難しいものです。平和とはそれほど難しいものなのでしょう。平和とはそんなに簡単に壊れ去るものなのでしょう。
 先日、秋のお彼岸でお説教に来て頂いた淀川師と萬斎との会話の中で、「自分か生きている今は、普通で当たり前と思ったらあかんで。めっちゃ薄っすい氷の上に立っているみたいなもんなんやで。すぐに割れてしまい、いとも簡単に足を踏み外して、地の底へ落ち込むんやでえ。それくらい、もろくて不安定であっけなく割れるんやで。そして一度落ちたら、どんな善人でも這い上がることが出けへん、おっそろしい世界が下にはあるんやで。」と言い聞かせて頂いた様子を思い起こします。まさにこの意味が生苦(しょうく)、すなわち、生きる苦しみなのです。 「人生は地獄よりも地獄的である」と言ったのは芥川龍之介の有名な言葉ですが、その言葉どおり、世界中のすべての人が苦しんでいるのが今の世の中です。
 もみじの葉のように、だれに指図されることなく自ら色づき、争うことなく、時期が来たら黙って枯れ落ちる、その姿に今こそ、我々は学び取らなければなりません。そして、感じることもできない無意識の思想に、世界樹の考えが今でも我々の体の中にかすかにでも残っているのならば、平和的な解決を望むばかりです。そして改めて平和のありがたさを、今更ながら身にしみて感じております。だからこそ、今日一日の無事の安寧に自然と感謝を込めてお念仏をする今日この頃であります。

合掌
輝空談

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